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電子本
#booktok による出版革命
部厚い本を読む方法
02月28日・月
Washington Post Book Club のニュースレターで筆者 Ron Charles が部厚い枕本をいかに読むかの工夫の一つを紹介している。
注意を集中できる時間の長さがどんどん縮んでいるのが問題になっているが、Washington Post のハードカヴァーの小説のベストセラー・リストでは話が違う。少なくとも、まだ本を買う人間にとっては話が違う。今週の上位5冊の平均は600ページ。ちょっと下がると、Hanya Yanagihara "To Paradise" が720ページ、2018年のノーベル賞受賞者 Olga Tkarczuk の "The Books Of Jacob" は992ページだ。
長く入り組んだ話を毎日寝る前に15ページずつ読むのは、ドラマの1シーンを1ヶ月かけて見るようなものではないか。これはそのドラマを一晩で見るのとはまるで違った体験になるはずだ、というのはわかる。どういう体験かはすぐにはわからないにしても。
これは確かに面白い問題で、見るのにかかる時間だけではなくて、演じられるものをただ見るのと、活字を読んでそのシーンを頭の中に浮かびあがらせたものを見るのでは、まるで違った体験になる。
18世紀のポーランドの神秘主義者 Jacob Frank の話である "The Books Of Jacob" を読んでやろうという人向けに Olga Tokarczuk Books Calculator なるサイトがあるそうだ。ポーランドの本の虫たちがつくったサイトで、読む時間がどれくらいあるかと自分の読書スピードを入れると、この作家のどの本から読めばいいか、どれくらいで読みおえられるかを計算してくれる。わかったら、あとはただ読みはじめればいい。まことに簡単。
いや、そりゃそうだろうけどさ、自分の読書スピードは測ったことがないし、本によっても変わるし、日本語と英語では当然違う。
とにかく読みはじめればいいというのはまったくその通りだが、次々に目移りして、いつまでたっても読みおわらない、途中で読みかけた本だけが増えていくのはどうすればいいのか。とにかく読みおわるまでは次の本を読まない、というのをルールにしたこともあったが、長続きしたことはない。
トカルチュクの作品はいくつか邦訳もされているけれど、代表作ならば The Books Of Jacob ヤクプの諸書になるとすれば、こいつから読みたいわな。それが邦訳されるかどうかわからないから、といあえず英訳(7年かかったそうな)を読むか、ということになる。それにチャールズと同じく、部厚い本は好きだ。読みおえられるかどうかは関係ない。部厚い、というだけでわくわくしてくる。だから、部厚い本は電子本ではダメなのだ。部厚いブツを手に持ちたい。その部厚さを眺めてにやにやするのだ。どこまで読んだか、一目でわかるのが嬉しい。読みおえて本を閉じる時の快感。しかし、もう部厚いブツを置いておくスペースは無い。それに電子版はすぐ読みはじめられる。無料サンプルもある。
ということで、とりあえず、無料サンプルをダウンロード。巻頭に18世紀のヨーロッパの地図。現在のウクライナの東半分はロシア帝国、西半分はクリミア半島も含めてポーランドの領土。
##本日のグレイトフル・デッド
02月28日には1969年から1981年まで4本のショウをしている。公式リリースは3本。うち完全版1本。準完全版1本。
1. 1969 The Fillmore West, San Francisco, CA
金曜日。このヴェニュー4日連続の2日目。3.50ドル。この日の演奏からは《Live/Dead》への収録は無し。《Fillmore West 1969: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。第一部全部と第二部〈Dark Star〉からの4曲が抜粋盤《Fillmore West 1969 (3CD)》に収録された。
この日の第一部は2曲目から〈Good Morning Little Schoolgirl〉、3・4曲目〈I'm A King Bee〉〈Turn On Your Lovelight〉とピグペン祭りだ。第二部は一変して、ピグペンの影もない。無いはずはないが、音には出てこない。オルガンはトム・コンスタンティンだ。
原始デッドはピグペンが原動力のはずだが、その完成した姿の中では居心地があまりよくないように見える。ピグペンが前面に立つ時のデッドは、それ以外の時と別のバンドのようだ。これもまたデッドを貫く「双極の原理」の現れの一つだろうか。ピグペンが脱けてそちらの位相は消えるわけで、ピグペン・デッドとそれ以外が、ガルシア、ウィア、それぞれがリード・ヴォーカルをとる曲の対照に入れ替わる、としてみよう。
この日のショウにもどれば、〈Turn On Your Lovelight〉を第一部にやっているために、〈That's It For The Other One〉から〈Dark Star> St. Stephen> The Eleven〉と来て、ガルシアのブルーズ・ナンバー〈Death Don't Have No Mercy〉をはさんで、また〈Alligator> Caution〉と集団即興のジャムが続く。誰もビートをキープしていないのに、全体としてビートはしっかり刻まれて、一見、それぞれに勝手なことをやっているようなのに、全体としては調和がとれている音楽が流れてゆく。その間、ドラムスでは「ラクタ、タケタ、タケタ」という口打楽器まで出てくる。この時期以外では聴いた覚えがない。最後の〈Feedback〉は後の "Space" そのもの。こうしてみると、メロディもビートも無い、このクールでフリーな時間を、デッドは必要としていたとわかる。そして、デッドによるこの演奏、音楽は聴いていても面白い。こういうあくまでもフリーな即興が聴くだけでも面白いのは、メンバーの音楽的蓄積が生半可なものではないことの証しの一つではある。デッドのコピー・バンドがコピーしようとして聴くにたえないものになるのは、こういう演奏だ。かれらはデッドしか聴いていない。それではデッドのコピーはできない。デッドの本当のコピーをしようとするなら、デッドが聴いていた音楽も聴かねばならない。
2. 1970 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA
土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。コマンダー・コディ前座。約2時間の一本勝負。5〜7曲目〈Monkey And The Engineer〉〈Little Sadie〉〈Black Peter〉はアコースティック・セット。その前後はエレクトリック・セット。
3. 1973 Salt Palace, Salt Lake City, UT
水曜日。ここで年初からのツアー1度中断。次は2週間後にニューヨーク。第二部5曲目〈The Promised Land〉を除く全体が《Dick's Picks, Vol. 28》でリリースされた。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジが間で演奏し、ガルシアがペダルスティールを弾いた。
《Dick's Picks, Vol. 28》は2本のショウをCD4枚に収めるが、CDの収録限界に収めるため、どちらも曲を削っている。この日は、この時期にしては短かめのショウで、削られたのは1曲ですんだ。
内容は第一級で、良い時のデッドらしく、緊張と弛緩が同居する。ここではまずドナの貢献が目立つ。〈Beat It On Down The Line〉は終始ウィアとの二重唱が見事に決まり、〈Box Of Rain〉ではレシュの歌にハーモニーをつけて、ぎくしゃくした彼の歌唱を滑らかにし、〈He's Gone〉でもコーラスがリッチになる。これを聴くだけで幸せになる。
〈They Love Each Other〉は闊達でポップ、アップテンポの弾むような演奏。この歌はこういうスタイルと、リリカルに流れるような演奏と二つの面を持つ。弾むヴァージョンでは、ユーモラスな面が前に出る。ユーモアの点では次の〈Mexicali Blues〉はバーロゥとウィアのコンビによる最初の歌で、歌詞は深刻にも読めるが、メロディと演奏スタイルはユーモラスだ。いわゆる "gallows humour" というやつ。この流れはさらに〈Sugaree〉にも続く。
第二部でも快調そのもので、ガルシアのソロも冴えわたる。〈Truckin'〉の後半で、ベースとドラムスだけの対話となり、ベース・ソロから、オープニングのリフで〈The Other One〉、〈Eyes Of The World> Morning Dew〉まで止まらない。クローザーの〈Sugar Magnolia〉の中間のブレイクは結構長いが、"Sunshine Daydream" の始まりはふつうで、フルバンドによる「ドン!」はまだない。ここでもウィアとドナの息はぴったりで、最後にドナが "Thank you."
4. 1981 Uptown Theatre, Chicago, IL
土曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。11.5ドル。開演7時半。第一部クローザーの〈Let It Grow> Deal〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
この2曲だけでもこのショウの質の高さは鮮明。どちらもアップテンポで、前者はマイナー調なのでぐんと切迫感が強い。後者は明るく陽気な曲で開放的だ。
前者ではガルシアがこの時期の特徴の一つでもある細かい音を連ねる奏法を続けて、さらに切迫感がつのる。この奏法はおそらくブルーグラスのバンジョーをエミュレートしたものだろう。デッドを始める前、ガルシアはブルーグラスに入れあげて、ベイエリア随一のバンジョー奏者とも言われた。エレクトリック・ギターでやるとバンジョーのように音が跳ねないので、音楽が発散されず、1ヶ所に集中してゆく。どんどん集中してゆく一方で、その集中が引きのばされる。いわば無限に収束してゆくので、いつまでも集中しきらない。まるでその無限の空間から音が湧きでてくるようだ。ひとしきりジャムを続け、元にもどってウィアとミドランドが2度目のコーラスを歌った後も、ガルシアは弾きやめようとしない。ミドランドが何度かうながして、ようやくコーダのフレーズに移る。
その最後の音の次にいきなり後者を始める。ミドランドは電子ピアノからハモンド・オルガンに斬りかえる。ここではがらりと変わって、突きぬけるような解放感のもと、ガルシアは気持ち良さそうにギターを、バンジョーではなくギターを弾く。ガルシアの声も元気。元気に弾くガルシアをミドランドが応えて煽り、それにガルシアが乗るのにさらに返す。二人の掛合、からみあいに興奮する。やめたくないのがありあり。コーダのコーラス・リピートをやってもまだやめず、もう1度やる。(ゆ)
去年、何冊読んだ?
01月15日・土
Washington Post Book Club のニュースレターで昨年アメリカの成人は平均して年12冊強の本を読んだ、というギャラップの調査結果をとりあげている。この数字は1990年以降で最低。1冊も本を読まなかった人は17%で変わらず。ただし、多読の人の数が激減して、全体の数が減少した。年10冊以上読む人の割合は27%で、2016年以来8%の減少。それ以前に比べても4%以上減っている。この減少は大学院生やそれ以上の年齡でとりわけ顕著。つまり、自由な時間の使い方として、読書の人気は落ちている。というのがギャラップの結論。
一方で、電子本、オーディオ本、デジタル雑誌を1年で100万回以上貸出した公共図書館の数は記録的な増加をしている。そうだ。
わが国ではどうかとちょと検索してみると、2015年4月の調査で月平均2.8冊という数字が出てきた。ということは年33冊以上。3倍だ。が、1冊も読まなかったのは3分の1。こちらも倍である。この調査では月10冊以上が8.2%。21冊以上は出ていないが、こちらも3分の1。つまり、日本語では本を読む人間はたくさん読むが、読まない人間が多い。アメリカでは、英語とは限らないが、本を読む人間の数そのものは多いが、一人あたり数は読まない。
それに、ここでは本の中身まではわからない。マンガも入れているのか。回答者によって入れたり入れなかったりかもしれない。アメリカでの調査には comics は入っていないと見ていい。もっともこちらもそれ以上の中身まではわからない。
引きこもりで読書量は増えたと言われるけれど、日本語ネイティヴは本を読むのが好きでない、というより習慣にない人が多い気がする。というのは上の数字からも当たっていそうだ。新聞、雑誌は読んでも、本は読まないという人たちだ。もともと江戸時代までは読書はほんの一部のものだった。とすれば、明治以降でここまで増えた、とみるべきか。
日本語ではマンガがほとんど遺伝子に組みこまれている。『源氏物語』にも早くから『絵巻』が作られた。物語を絵で語る技術をわれわれは磨いてきている。漢字かな混じり文がその原型だろうし、そもそも漢字かな混じり文を発明したのは、言語からの要請だけでなく、絵に対する感受性が鋭いこともあったのだろう。その感受性がどこから来ているのかはわからないが。マンガは絵が漢字、ネームがかなに相当する。
だから、文字だけで物語を語ることも読むこともあまり得意ではない。文字を読んでイメージを思い描くのが苦手なのではないか。日本語では大長編は例外だ。饒舌よりも簡潔が尊ばれる。量はある閾値を超えると質に転換することに、あたしらはようやく気がつきはじめたところだ。本はもちろん小説や物語ばかりではないが。
あたしはといえば、昨年は54冊。うちマンガは3冊。英語33冊。日本語21冊。頁合計12,294。1冊平均227頁。一番厚い本は Michelle West, The Sacred Hunt Duology, 858頁。日本語で一番厚かったのは平出隆『鳥を探しに』660頁。
##本日のグレイトフル・デッド
01月15日には1966年から1979年まで4本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1966 Beaver Hall, Portland, OR または The Matrix, San Francisco, CA
どちらのショウだったか、定まっていない。後者はポスターがあり、ほぼ確定か。前者は元旦に行われたとの推測もある。
2. 1967 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
2ドル。子どもは無料。開演午後2時。前2日の追加公演だろう。ジュニア・ウェルズ・シカゴ・ブルーズ・バンド、ドアーズというラインナップ。セット・リスト不明。
3. 1978 Selland Arena, Fresno, CA
前売6.50ドル。当日7.50ドル。開演7時半。ガルシアははじめ声が出なかったが、だんだん良くなった。第二部の〈Playing In The Band〉はこの時期としては珍しく30分近い演奏。
この曲は演奏回数610回で第2位だが、トップは〈Me and My Uncle〉なので、デッドのオリジナルとしてはこれがトップになる。これだけの回数演奏したのは、この曲を演奏するのがそれだけ愉しかったのだろう。これが5分で終る(デッドとしては)ごくありきたりの曲から30分を超えるモンスターに成長し、さらに他の曲をはさんだり、時には日をまたいではさんだりするようになってゆく様は、何とも興趣が尽きない。しかも、そのどれ一つとして同じことの繰返しが無い。こういう現象もデッド宇宙ならでは。
4. 1979 Springfield Civic Center Arena, Springfield, MA
8.50ドル。開演7時半。第一部と第二部の出来の差が大きいらしい。ここでも〈Playing In The Band〉がスピリチュアルだったそうな。デッドの音楽はめくるめく集団即興になって聴く者を巻きこんでもみくちゃにもすれば、深閑としたスピリチュアルな時空を現出して吸いこんで解き放ちもする。(ゆ)
どうすればもっと読めるか。
01月07日・金
Penguin のサイトに、どうすればもっと読めるか、という記事。こういう記事を載せる洒落っ気が欲しい。いろいろ書いてあるが、これは効きそうだと思ったのはまず、
毎日最低10分は読め。
そして、
朝起きたらまず読め。詩かエッセイ少なくとも1本。
つまりは、その日、一番大事なことを起きたらまずやれ。読者なら読め。翻訳者なら訳せ。作家は書け。大江健三郎は、毎日、起きると、コップ一杯の水を飲んでソファに座り、画板の上に原稿用紙を広げて書きだす。昼過ぎまでひたすら書く。朝食もとらない。昼過ぎ、今日はこれまで、というところまで書いたところで、食事をする、という習慣だ、というのを読んで、なるほど作家だ、書く人だと感心した。作品はほとんど読んではいないけれど。
今年はさしづめ、朝起きたら、まずデッドを1本、であるな。
##本日のグレイトフル・デッド
01月07日には1966、1978、1979年の3本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1966 The Matrix, San Francisco, CA
DeadBase XI は13曲からなるセット・リストを掲げ、DeadBase 50 で、このセット・リストはヴェニューのサウンド・エンジニアだった Peter Abram から1983年に得たものだとしている。
ヴェニューはピザ・パーラーを改装したナイトクラブで、1965年08月13日、ジファーソン・エアプレインの初ライヴを柿落しとした。というよりも、マーティン・バリンが自分が集めたバンドが演奏する場として、3人のパトロンを口説いてここを開いた。ここで演奏することでジェファーソン・エアプレインは生まれる。1972年まで続くここは、いわゆるサンフランシスコ・サウンド揺籃の地として重要な役割を果たす。エアプレイン、デッド、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュはじめ、1960年代後半に活動を始めたロック・アクトや、それ以前からのブルーズ・アクトが多数、また若干のジャズ・ミュージシャンもここで演っている。Wikipedia の記事にはヴェルヴェット・アンダーグラウンドやウェイラーズの名前もある。
デッドはここで活動開始直後から1970年12月まで、少なくとも26本のショウをしている。なぜか1967年には一度も出ていない。
セット・リストからすると、この時期の典型でピグペンのバンドだ。この日のテープは現時点で出現していない。
2. 1978 Golden Hall, San Diego Community Concourse, San Diego, CA
この日もガルシアは喉頭炎でまったく歌えず。全体に短い。
第二部4曲目〈Playing In The Band〉の途中、レシュがベルリオーズの〈幻想交響曲〉の第五楽章「魔女の饗宴の夢」のテーマを弾き、そこから無気味なジャムになった由。
3. 1979 Madison Square Garden, New York , NY
9.50ドル。開演7時。このヴェニュー2日連続の初日。最初の MSG 公演。1978-11-30のショウの振替え。
上記1978年正月では、ガルシアは声は出なかったがギターは弾けたので、ショウは行った。これが振替えになった前年11月末から12月初めにはガルシアは風邪でステージに立てず、ショウは中止になった。11月25日のニュー・ヘイヴン・コリシアムでは、すでに開場して、席が埋まったところで中止が決まった。中止を告げたら、聴衆がどんな反応をするかとびくびくものでステージに出たプロモーターの Jim Koplik には、ウィアとハートが脇につき添い、実際に中止をアナウンスしたのはウィアだった。客席から薔薇が1本、ステージに投げこまれ、聴衆はおとなしく退場した。1970年代初め、ピグペンが健康を害して長期欠席するようになっても、ショウは普段どおり続けられた。しかし、ガルシアが出られない場合には、デッドとしてのショウはできなかったわけだ。
1971年12月に MSG のメイン・アリーナの下にある Felt Forum で4日間のランをしたことはあるが、メイン・アリーナに出るのはこれが初めて。オープニングでステージに出てくるガルシアの目は興奮で真ん丸くなっていたそうな。以後、1994年10月まで計52本のショウをここですることになる。クローザーの2曲の時PAの調子がひどく悪かった。(ゆ)
ヤコブ・ヴェゲリウス『サリー・ジョーンズの伝説』
10月13日・水
図書館から借りてきたヤコブ・ヴェゲリウス『サリー・ジョーンズの伝説』を読む。すばらしい。『曲芸師ハリドン』は文章主体で絵はあくまでも挿絵だったが、こちらは絵と文章が半々。グラフィック・ノヴェルに分類されるものだろう。長さからいえば、グラフィック・ノヴェラだ。
主人公が並外れたゴリラ、という以外はリアリズムに徹する手法がいい。絵もいい。デフォルメのバランスがとれていて、ユーモラスでもあり、シビアでもある。感情を描かず、起きるできごとを坦々と語ってゆく語り口もいい。リアリズムである一方で、荒唐無稽寸前でもあって、文字通り波瀾万丈、それをもの静かな語り口が支える。この誇張のバランスもまたよくとれている。舞台がイスタンブールやシンガポールやボルネオなど、いわば文明の中心地からは外れたところであるのも新鮮。アメリカには行くけれども、サンフランシスコとニューヨークの港だけ。
サリー・ジョーンズは娘なのだが、ゴリラであるだけでジェンダーが消える。名前からして女性であるとわかるはずだが、誰もそのことを指摘したり、それによって差別したりはしない。オランウータンのババの性別は記されない。
まだ、飛行機の無い時代。第一次世界大戦前。船が万能だった時代。それにしてもディテールがまた深い。シンガポールとマカッサルを往復、周回する航路は、おそらく実際に栄えていただろう。
ラスト、サリー・ジョーンズは故郷にもどり、かつての仲間たちと再会する。けれども、そこにずっと留まることもできない。オランウータンのババとは異なり、サリー・ジョーンズは人間世界で生きてゆく技術に卓越してしまった。それはまたサリー・ジョーンズの性格をも変えている。ゴリラの世界で生きていくだけでは、生きている喜びを感じられない。生きのびるために変わったのだが、一度変化した者はもとにはもどれない。
チーフもサリー・ジョーンズも、金を稼ぐのは使うためだ。使う目的があり、そのためにカネを作る。金とは本来、このように使うものだ。稼いでから、何に使おうか考えるのではない。稼ぐことそのものを楽しむのはまた別だ。
ここには道徳は無い。生きるために道徳は要らない。心に深い傷を負ったものにも、道徳は要らない。泥棒から盗むのは罪か、考えることは無意味だ。
サリー・ジョーンズは学ぶのが好きだ。何かを学んで、できなかったことができるようになることが面白い。盗みの技術も蒸気船の機関を扱う技術も、学べる技術であることでは同じだ。
サーカスのシーンでハリドンがカメオ出演している。
こうなると、サリー・ジョーンズを探偵役に据えた次の長篇は実に楽しみになってきた。
##本日のグレイトフル・デッド
10月13日は1968年から1994年まで、6本のショウをしている。公式リリースは3本。
1. 1968 Avalon Ballroom, San Francisco, CA
前半冒頭から3曲〈Dark Star> Saint Stephen> The Eleven〉が2019年の《30 Days Of Dead》で、後半のオープナー〈That's It for the Other One〉の組曲が2016年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。判明しているのは前半4曲、後半5曲なので、半分以上がリリースされたことになる。全体で65分であったらしい。
ピグペンは不在だが、ウィアはいる。
ジミヘンがやってきて、演奏に加われるんじゃないかと思っていたらしい。しかし、ジミヘンは前の晩、ソーサリートのヘリポートでデッドとクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスに待ちぼうけをくらわしていたので、ステージには呼ばれなかった。
〈The Eleven〉の後ろが切れているのが惜しい。演奏はいい。〈That's It for the Other One〉を聴いても、全体像を何らかの形でリリースしてほしい。〈Dark Star〉はパーカッションがほとんどギロだけで通し、ドラムスが無いのが一種超越的な感覚を生む。この頃は、バンド全員の即興であることがよくわかる。1990年代になると、他のメンバーがガルシアを盛りたてる形になる。全員が対等の即興ではなくなる。この時期のルーズで、かつ緊密にからみあった、スリル満点の演奏の方を評価したくなる気持ちはよくわかる。
2. 1980 Warfield Theater, San Francisco, CA
第一部3曲目〈El Paso〉、7曲目〈The Race Is On〉が《Reckoning》で、第二部〈Sugaree〉が2010年の《30 Days Of Dead》で、4曲目〈C C Rider〉、6・7曲目〈Lazy Lightnin'> Supplication〉が《Dead Set》でリリースされた。どちらも2004年の拡大版に初出。
2010年の《30 Days Of Dead》は持っていない。
〈El Paso〉ではウィアがずっと歌いつづける後ろでガルシアがいろいろなことをやる。〈C C Rider〉はゆったりしたブルーズ・ナンバー。ガルシアがやはりウィアのヴォーカルの後ろで茶々を入れるのが粋。ミドランドのハモンド・ソロもシャープで、ガルシアがこれに応じる。〈Lazy Lightnin'> Supplication〉、前者では "My lightnin', too" のコール&レスポンスが長い。
3. 1981 Walter Koebel Halle, Russelsheim, West Germany
この年二度目のヨーロッパ・ツアー8本目。アンコールはストーンズの〈(I Can't Get No) Satisfaction〉だが、あまりに面白かったので、ウィアが今のはレーガンに捧げる、と言った由。
4. 1989 NBC Studios, New York, NY
正式のショウには数えられない。ガルシアとウィアが Late Night with David Letterman に出演、番組のハウス・バンド The World's Most Dangerous Band をバックにスモーキー・ロビンソンの〈I Second That Emotion〉を演奏した。1番をガルシア、2番をウィアが歌った。レターマンがロシア当時はソ連遠征の可能性について、どれくらいあちらにいるつもりかと訊ねるとガルシアは「出してもらえるまでさ」。以上、DeadBase XI の John J. Wood のレポートによる。
5. 1990 Ice Stadium, Stockholm, Sweden
最後のヨーロッパ・ツアー初日。ここから統一後初のドイツ、フランス、イングランドと回る。夜7時半開演。良いショウではあるが、ややラフだったというレポートもある。ガルシアが食べたマリファナ入りブラウニーが強烈だった、という説もあり、時差ボケだという説もある。
6. 1994 Madison Square Garden, NY
6本連続の初日。前半6曲目〈Dupree's Diamond Blues〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。ガルシアはご機嫌で、これは良いショウだったろう。少なくとも前半は。ここではウェルニクのピアノがよく働いている。
ジミー・ペイジとロバート・プラントが前半途中まで見ていた、という報告があるが、真偽のほどは不明。(ゆ)
ビショップ No Enemy But Time ゲラ
買物日記
DAW はもちろん創設者の Donald A. Wolheim の頭文字で、長いこと Ace の編集者を勤めて独立したわけだ。同じ Ace でもより先鋭的な Ace Science Fiction Special を担当したのは Terry Carr で、ウォルハイムは比較的娯楽色の強いものを出していたのを、DAW でもそのまま引き継いだように見えた。ウォルハイムは伊藤典夫さんが SFM に連載したエッセイで悪役としてとりあげられていた印象もあり、DAW はいわばB級版元とあたしなどは見なしていた。しかし、前世紀末から始まった大手出版社の寡占化が進み、それに伴って新人の育成が編集者の手から経理や営業担当の手に移ってくると、DAW の独立性は際立ってくる。

謹賀新年
年があらたまったからといって放射能が消えてくれるわけではありませんが、われわれ列島の住民は年があらたまることで、新たなエネルギーをもらうことは確かです。より良い環境を子どもたちに残すよう努力を続ける覚悟を新たにしています。
昨年は外にあっても内にあっても、「天地がひっくりかえった」年でありました。それも、小生の大腸がん摘出手術の10日後に東日本大震災が起きるというめぐりあわせでありました。生き残った、生き延びた、という実感が、むしろ日が経つにつれて強くなっています。
昨年の今ごろは貧血が相当悪化していて、ふらふらの状態でした。よくまあ生きていたものよ、と思いかえされます。時代が違えば、あるいはこの現代でも場所が違えば、とうの昔に死んでいたはずです。貧血だけでなく、腸閉塞もがんによるものでしたから、摘出しなければ口から入れたものが通るはずはなく、次第に何も食べられなくなって、餓死していたでしょう。
今年も初詣は大山阿降利神社に行ってきました。昨年はバスの終点からケーブルカーの駅までの階段を昇るのがほんとうに辛かった。体が重かったものです。今年は息は切れましたが、ふつうの息の切れ方で、むしろ体に負荷をかけるのが快いくらい。負荷をかけられるのも健康の証であります。
いつものように、ケーブルの駅から二番目のかんき楼で昼食。ここの湯豆腐ととろろ御飯が好きで、阿降利神社に初詣に来るようになってからは、ずっとここで昼食をとっています。とろろ御飯にはゆずの砂糖漬がついてくるのも◎。今年もこれが食べられる幸せを噛みしめたことであります。
昨年は音楽の方面ではまたネットのありがたみを実感しました。とりわけ《MILES ESPANOL: New Sketches of Spain》からラテン音楽への関心がめざめ、とうとうフラメンコにはまりつつあります。今までは敬して遠ざけていたところもありましたが、フラメンコ自体の変化もあって、おもしろいことになってきました。
自分ではこれまでどちらかと言えば北方志向、いわば「北耳」をもっていると思っていましたが、嗜好が広がったというよりは、やはりもとから潜んでいたものが表われたという方があたっているようです。節操が無い、と言われればその通りではありますが、ジャズともども、未知の大陸に踏みこむのはたまらなく楽しい。まあ、つくづく新しもの好きなのでありましょう。
昨年の経験から、残された時間が限られていることはひしひしと感じられます。その限られた時間があるうちに、すでに死んでしまった人も含め、一人でも多くの未知のミュージシャンの音楽を、一曲でも多く、聴きたい。
同時に、すでに耳タコの人や人たちの音楽を、あらためて徹底的に聴きたおすこともやりたい。とりあえずはクリスティ・ムーアとダギー・マクリーンとフィル・ビア、それにブルース・コバーン。
ようやく小説がまた読めるようになってきた気配もあって、読みたい本はいくらでもありますし、再読したい本もまたたくさんあります。まずは『ゲド戦記』と『ウロボロス』かな。ついでに一度読んだけど、さっぱり面白さのわからなかった Zimianbian Trilogy にあらためて挑戦したい。第2回の南原繁賞に決まった福岡万里子「プロイセン東アジア遠征と幕末外交」も本になるのが待ち遠しい。
残された時間はどんどん減っていくにしても、おちおち死んでいる暇はありません。
生あるかぎり、音楽を聴き、本を読むことだけはやめまい、との決意もまたあらたにしてます。(ゆ)