クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:講座

 新宿の朝日カルチャーセンターでのアイリッシュ・ミュージックの講座が1週間後になりました。ようやく材料がそろってレジュメを作ってます。申込はこちらをどうぞ。

 手許にある材料でやるつもりでいたら、その材料が出てこない! 昨年、家のリフォームをしたりして、荷物をまとめて預けたり、あちこち動かしたりしたせいか、とにかく、いろいろなモノが行方不明になってます。CDやDVDだけでなく、本も、あれはあったはずだ、さあ読もうとするとまったく見つからないことが続いていて、いささかまいってます。

 こういう講座となると、無いではすまされないので、やむなくあらたに買いこんだりしてますが、まったく「ギャラより高い資料代」(「屋根より高い鯉幟り」のメロディで)。

 直前になって、材料を入れ換えたりもして、せっかく買ったものをはずしたり、まったく我ながら、何やってんだか。

 当日、一緒に見たり聴いたりしようと思っているのは、以下のような動画、録音です。

01. モダン・アイリッシュ・ミュージックの開幕
Planxty
〈Raggle Taggle Gypsy; Tabhair Dom Do Lamh (Give Me Your Hand)〉
1973

02. 無伴奏歌唱——英語
Rosie Stewart
〈Do Me Justice〉

03. 無伴奏歌唱——アイルランド語=シャン・ノース
Darach O Cathain
〈Oro, ‘Se Do Bheatha Abhaile (You’re Welcome Home)〉

04. マウス・ミュージック
Dolores Keane & John Faulkner
〈Mouth music〉

05. シャン・ノース・ダンス
Paidí Bán Ó Broin & Dessie O’Connor, Dublin

06. ホィッスル
Dennis O’Brien
Ni ar Chnoc no ar Isleacht (Not on a High Place nor on a Low Place)> Finbarr Dwyer’s Reel

07. イリン・パイプ
Gay McKeon
Bean Dubh a Ghleanna (Dark Woman of the Glen)> The Ace and Duece of Piping

08. セッション
Denis Murphy, Kerry & Ted Furey, etc.
Lucy Campbell’s Reel> The Sligo Maid

09. ケイリ・バンド
Paddy Canny: fiddle
P. J. Hayes: fiddle
Peadar O’Loughlin: flute
Bridie Lafferty: piano
Rolling In The Barrel> In The Tap Room> The Earl's Chair

10. 伝統の最先端
The Gloaming
The Sailor's Bonnet> Rolling In The Barrel> The Tap Room> Tom Doherty's


 プランクシティのは TG4 で放映されて、YouTube に上がっているライヴ映像です。まったく、こんなものが見られるとは、すごい時代になったもんです。と言っても、なかなかわかってもらえんでしょうなあ。ほんとにこうして見てても信じられない。だいたい、撮影していたとはねえ。これは例のドノヴァンのアイルランド・ツアーに前座として同行したときのもので、ダブリンとあります。このツアーの最初のコークでのライヴの録音が、クリスティ・ムーアの2004年のボックスセットに入っていて、最初に聴いたときはほんとうに仰天しました。このバンドのアイルランドにおける衝撃の大きさがようやく実感されました。だいたい、この時、ドノヴァンを見に来た人たちはイリン・パイプなんて、それまで見たことすらなかった。まあ、そういうものがある、あった、というのはどこかで耳にした人もいたかもしれない。しかし、こうやって映像で見ると、やあっぱり、カッコいいんですよねえ。

 それと、ドーナルの弾いてるブズーキがまだラウンドバックであるのも面白い。ただし、8弦4コース。アレック・フィンが初期に弾いてたのはレコード・ジャケットでは6弦3コースで、そのあたりも、二人の奏法の違いになってるのかも。

 それにしても、ここまでになるには、相当いろいろ試行錯誤したりしたはずです。もちろん、Sweeney's Men もあったし、クリスティの《PROSPEROUS》もあったし、ライヴやリハーサルや、そこまでいかない遊びみたいなものは結構やってたんでしょうけどね。そう、あの〈The Mouth of the Tobique〉のアレンジを、シャロン・シャノンやナリグ・ケイシーたちが、来日した時の杉並の公会堂の楽屋できゃあきゃあいいながら作ってった、というのと同様な光景が、たぶんあの頃のダブリンあたりのパブかどこかの地下室でくりひろげられていて、ドーナルやアンディやリアムたちが、わいわいいいながら作ってったんだろうなあ。

 タイトルの「真髄」というのは、前にも書きましたが、見よ、聞け、これが真髄なるぞよ、というんではなくて、あたしが真髄に触れてる、真髄が降りてきていると感じるものという意味で、今回見たり、聴いたりするのは、どれもそういう体験をさせてくれるものです。少なくともあたしにとっては。

 材料としてはまずいいかなと思ってますが、問題はこれで90分、質疑応答の時間もとるので、実質70分でまとめられるのか。あたしはどちらかというといつもおしゃべりが多すぎるので心配。話ベタなくせに、たくさんしゃべりたがるんです。自分でもわかってますが、直すのはたいへん難しい。とにかく、しゃべりはなるべく短かく、簡潔にと心がけるしかないですが。

 ということで、アイリッシュ・ミュージックとはどんなもんだ、どこが面白いのだ、と思ってる方は、ここは見てないでしょうけど、そういう人が周りにいたら、ものは試しに行ってみたらと薦めてみてください。(ゆ)

 イベントのお知らせです。

 朝日カルチャーセンターの東京・新宿教室で1回だけのアイリッシュ・ミュージック入門講座をやります。9月8日(土)の夜です。

https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/23bd4144-13a1-acd6-ec5d-5adf1d1846a4 

 全体でブリテン諸島の音楽という3回のシリーズになっていて、アイルランドがあたしの担当です。イングランドは宮廷音楽、スコットランドはダンスが中心になるらしい。アイルランドはあたしがやるので、伝統音楽ですね。今回、エンヤとかヴァン・モリソンとかU2とかコアーズとかポーグスとかメアリ・ブラックとかは出てきません。ヴァン・モリソンは入れるかなあ、と考えてはいますが、たぶん入らないんじゃないかな。クラシックも、アイルランド人が大好きなカントリーも無し。

 アイリッシュ・ミュージックの真髄、というのを標題に掲げました。この「真髄」とは何か。あたしは「キモ」と呼んでます。まさかね、これが「キモ」ですよと差出せるものなんかあるはずが無い。あったらキモチ悪いです。

 そうではなくて、アイリッシュ・ミュージックを聴いていて、背筋にゾゾゾと戦慄が走って、涙腺がゆるんで、同時にわけもなく嬉しくなってくる。わめきだしたいような、でもじっとこの感じを抱きしめたいような、何ともいえない幸福感がじわじわと湧いてくる。呆けた笑いが顔が浮かんでくるのをどうしようもない。そういう一瞬があるものです。もうね、そういう一瞬を体験すると病みつきになっちまうわけですが、そういう時、アイリッシュ・ミュージックのキモに触れているのだ、とあたしには思えるのです。

 何よりもスリルを感じるそういう一瞬は、昨日聴きだして、今日ぱっとすぐ味わえるもんじゃない。少なくともあたしはそんなことはありませんでした。その頃は、他に手引きもなく、もちろんネットなんてものもなく、わけもわからず、ただ、どうにも気になってしかたがなくて聴いていた。聴きつづけていると、ある日、ゾゾゾと背筋に戦慄がはしった。今のは何だ、ってんで、また聴く。そうやってだんだん深みにはまっていったわけです。その自分の体験の実例を示せば、ひょっとすると、何かの参考になるかもしれない。少なくとも手掛りのひとつにはなるんじゃないか。

 あたしらが聴きだした頃、というのは1970年代半ばですが、その頃は、音源も少ないし、情報もほとんど無いしでワケがわからなかったんですけど、一方で、少しずつ入ってきたから、その都度消化できた。自分の消化能力に見あった接触、吸収が可能でした。アイリッシュ・ミュージックのレコード、当時はもちろんLPですけど、リリースされる数もごく少なかったから、全部買って何度も聴くことができました。ミュージシャンの来日なんて、もうまるで考えられないことで、レコードだけが頼りでしたしね。

 今はアイリッシュ・ミュージックだって、いざ入ろうとしてみたら、いきなりどーんとでっかいものが聳えている感じでしょう。音源や映像はいくらでも山のようにあるし、情報も無限で、どれが宝石でどれがガセネタかの見分けもつかない。昔、数少ない仲間内での話で、アイリッシュ・ミュージックのレコードのジャケットと中身の質は反比例する、買うかどうかの判断に迷ったら、ジャケットのダサいやつを買え、というのがありました。半ば冗談、半ば本気でしたけど、今はこういうことすら言えない。

 そこでカルチャーセンターでの講座も頼まれるわけですが、だからって、これがキモに触れられる瞬間ですと教えられるものでもない。ここにキモを感じてください、ってのも不可能。だって、アイリッシュ・ミュージックのどこにキモを感じるかは人それぞれ、まったく同じ音楽を聴いても、キモを感じる人もいれば感じない人もいる。

 あたしが今回示そうと思ってるのは、つまりはあたしにとってのキモと思えるものの実例です。これまで半世紀近くアイリッシュ・ミュージックを聴いてきて、ああキモに触れたと思えたその代表例をいくつか提示してみます。それは例えばプランクシティのファースト・アルバム冒頭のトラックの、リアム・オ・フリンのパイプが高まる瞬間であったり、ダラク・オ・カハーンの、一見まったく平凡な声が平凡にうたう唄がやたら胸に沁みてくる時であったりするわけです。そういう音源や映像をいくつか聴いたり見たりしていただいて、そのよってきたるところをいくらか説明する。こういう例は何度聴いても当初のスリルが擦りきれることがありません。そこがまたキモのキモたる由縁です。

 それと、アイリッシュ・ミュージック全体としてこういうことは言えると考えていることも話せるでしょう。例えば、アイリッシュ・ミュージックというのは生活のための音楽である。庶民の日々の暮しを支えて、いろいろ辛い、苦しいこともあるけれど、なんとか明日も生きていこうという気にさせてくれる、そのための音楽である。

 音楽はみなそうだ、と言われればそれまでですが、アイリッシュ・ミュージックはとりわけそういう性格が濃い。それは庶民の、庶民による、庶民のための音楽です。名手、名人はいます。とびぬけたミュージシャンもいます。でも、そういう人たちは特別の存在じゃない。スターではないんです。ある晩、この世のものとも思えない演奏をしていた人も、翌朝会うとなんということはない普通の人です。カネと手間暇をかけて念入りに作られたエンタテインメントでもありません。プロが作る映画やショー、ステージとはまったく別のものです。

 一方で、ミュージシャン自身が内部に持っているものの表現でもありません。シンガー・ソング・ライターやパンク・バンド、あるいはヒップホップ、またはジャズ畑の音楽家、クラシックの作曲家といった人たちが生み出す音楽とは、成立ちが異なります。アイリッシュ・ミュージックのミュージシャンたち、シンガーたちも、まず自分が楽しむために演奏したり、唄ったりしますが、自分だけのためにはしません。アイリッシュ・ミュージックの根底には、一緒にやるのが一番楽しい、ということがあります。「一緒にやる」のには、聴くことも含まれます。

 アイリッシュ・ミュージックのミュージシャンたちはパブとか誰かの家に集まってセッションと呼ばれる合奏をよくやります。多い時には数十人にもなって、みんなで同じ曲をユニゾンでやるわけですけど、そういう中に楽器をもって演奏するふりをしているだけで、実は全然音を出していない、出せないつまり演奏できない人が混じっていたが、その場の誰もあやしまなかったという話があります。本当かどうか、わかりませんが、そういう話を聞いても、不思議はないね、さもありなん、と思えてしまうのがアイリッシュ・ミュージックです。実際にそういう人がいて、実はその場の他の全員が気がついていても、許してしまう、誰もその人を指さして批難して追い出すなんてことはしない。一緒に楽しんで場を盛り上げている人間が一人増えるんだから、そういう人がいたって全然いいじゃないかと考えるのがアイリッシュ・ミュージックです。

 これまでアイリッシュ・ミュージックについて公の場やパーソナルな機会に話して、一番よく訊ねられる質問があります。

 「どうしてアイリッシュ・ミュージックを聴くようになったんですか」

 なんでそういうことを訊くんだろうとはじめは思いましたが、気がつくと自分でも同じ質問をしたりしてるんですよね。とすれば、これは案外ものごとの急所を突いているのかもしれないと思えてきます。

 この質問に正面から答えようとすると回りくどくなるので、今回は簡潔に、あたしはアイリッシュ・ミュージックのこういうところに引っぱられてここまできました、という話にもなるでしょう。

 具体的に何を聴いたり見たりするかは、大枠はほぼ固まってますが、細かい点はこれからおいおい考えます。カルチャーセンターは初めてなんで、どんな人が来られるのか、いやその前に、だいたい人が来るのか、楽しみでもあり、コワくもあり。(ゆ)

 昨日は下北沢B&Bでの「アイリッシュ・バンジョー入門」にお越しいただき、ありがとうございます。正直、想いの外に多数の方が来ていただいたのには驚きもし、歓びもしました。それに熱気、英語でいう enthusiasm の度合いが他の楽器よりも一段と深いと思われました。バンジョーというのは不思議な楽器です。

 まず音がでかい。でかいだけでなく、華やかでもあり、どこにいてもそれとわかるし、他の楽器と一緒にやると他を圧倒する。無伴奏で弾いても自立できる。

 ところがお山の大将にはなりません。常に、どこにあっても脇役。無伴奏でいても脇役に見えます。派手で華やかに響くのに、主役にならない。なれないのではなく、そもそもそういう可能性がありません。

 バンジョーが不可欠の要素であり、おそらく最も密接な関係をもっているブルーグラスであってさえ、バンジョーは主役ではないでしょう。主役はマンドリンであり、フィドルであり、何よりもヴォーカルです。

 アイリッシュのバンジョーはブルーグラスのバンジョーとは異なります。姿形も違うし、使われ方も違います。いとこではあるかもしれませんが、住んでいる環境はまったく違う。ところが、中心からはどうやってもはずれるという性格は共通します。

 アイリッシュ・ミュージックにおけるバンジョーの歴史は古いです。バゥロンやギターなどよりもずっと古い。伝統の中に確固たる地位を占めていることでは、弦楽器の中ではフィドルに次ぎます。メロディ楽器であることは、撥弦楽器の中でもギターやブズーキとは比較にならないほど「王道」に近くもあります。

 にもかかわらず、バンジョーには日陰者の印象がつきまといます。ダブリナーズのバーニー・マッケナによって1960年代に桧舞台に上がりますが、マッケナ自身も含めて、バンジョーにはスーパー・スターがいません。パイプのリアム・オ・フリン、パディ・キーナン、フルートのマット・モロイ、アコーディオンのジャッキィ・デイリー、ギターのミホール・オ・ドーナル、ポール・ブレディ、フィドルのケヴィン・バーク、フランキィ・ゲイヴィン、マーティン・ヘイズあるいはシャロン・シャノンのような、その楽器を代表し、演奏スタイルや地位をがらりと変えてしまうミュージシャンは、バンジョーでは未だ現れていません。

 かくいうあたしはと言えば、1998年にジェリィ・オコナーの《Myriad》が出るまで、バンジョーの存在は知っていても音を聴いたことはほとんどありませんでした。いや、聴いてはいたはずです。デ・ダナン初期のメンバーであったチャーリー・ピゴットや Stockton's Wing の Kieran Hanrahan はバンジョーを弾いていました。しかしその音や存在が意識の表面に出てくることはありませんでした。

 そういう意味では《Myriad》は衝撃でした。バンジョーはこんなに凄いことがやれるのか。それまでアイリッシュ・ミュージックでは体験したことのないダイナミズム、スピード感、そして華やかさに目眩く想いでした。1998年といえば、ケルティック・タイガーが咆えまくっていた頃で、アイリッシュ・ミュージックも空前の盛り上がりを続けて、すばらしい録音も目白押しに出ていました。その中でも《Myriad》は光り輝いていたようにみえました。これによってアイリッシュ・ミュージックのバンジョーは新たな時代に入った、とも見えました。

 もっとも後から思えば伏線はちゃんとあったので、1990年代初めに出た「スーパー・グループ」Four Men And A Dog はカハル・ヘイデンとミック・デイリィの二人のバンジョー奏者を擁し、デイリィと交替するもう一人のジェリィ・オコナーもバンジョーを弾きました。そこではやはりバンジョーのサウンドはアンサンブルの一部として機能していて(これはまたこれで凄いことですが)、目立つことはなかったものの、バンジョーの存在はより切実なものとして、意識化に刷りこまれていたのでしょう。

 オコナー、ヘイデン、あるいはソーラスのシェイマス・イーガン、さらにはスコットランドのエイモン・コイン、そして現在 We Banjo 3 を率いるエンダ・スカヒルと、華やかなバンジョーをいやが上にも華やかに演奏するスーパー・プレーヤーの流れがあるように思われます。とはいえ、こういう人たちも、バンジョーといえばこの人と誰もが指折る存在というわけではありません。例えば五弦であればベラ・フレックに相当する存在はアイリッシュ・バンジョーにはどうやらいないのです。

 一方で、そういう人たちとは別にもっと地味な曲をよりシンプルに、ほとんどつつましいとまで言えるスタイルで弾く一群のミュージシャンがいます。ということを、あたしは今回の講座のための勉強で学びました。高橋さんに教えてもらったところが大きいのですが、これは大きな収獲でした。というのも、ここにはアイリッシュ・ミュージックの根幹に通じる糸が隠れていたからです。

 バンジョーは高橋さんによれば、アイリッシュ・ミュージックには向いていない。音を伸ばせませんし、すべての音を弾いて出さねばなりません。他の楽器の音と混じりにくい。そうした「欠点」によって、アイリッシュ・ミュージックのキモが逆にあぶり出されるのです。音が伸びないことで、メロディの構造がはっきりします。全ての音が明瞭に弾かれますから、装飾音の入れ方やメロディのアレンジもよくわかります。ダンス・チューンを繰り返すごとにミュージシャンがどのようにメロディを変えているか、手にとるようにわかります。そして、バンジョーでアイリッシュ・ミュージックを活き活きと演奏するために必要な呼吸。これは高橋さんが師匠のジョン・カーティから言われたことだそうですが、フルートの息の吹き入れ方、息継ぎのやり方をよく見て、それをバンジョー演奏に組込むようにする。あるいはフィドルで音を伸ばすところをバンジョーでも出そうとしてみる。そうすると、音にアクセントがついてメロディに立体感が生まれ、曲が躍動しはじめます。

 もちろんこうしたことはスーパーなバンジョーを展開するミュージシャンたちも押えています。とはいえそれ以上にバンジョーによる伝統音楽表現をより深めようと目指す人たちがいます。たとえば高橋さんの師匠のジョン・カーティであり、高橋さんの友人の Patrick Cummins であり、女性のバンジョー奏者の道を切り開いた Angelina Carberry であり、ピアニストとしての方が有名な Brian McGrath であり、あるいはつい先日すばらしい録音を出した Shane Mulchrone です。

 スーパーでなければディープというわけではなく、ディープな人がいつもいつもひたすら地味にシンプルにやっているわけでもないことは当然です。こうした分類は、現在のシーンを外から眺めた場合、こう見ることもできるという一例に過ぎないことは念のため申しそえます。また、各々の傾向は、本人の性格や生まれ育った環境から生まれるところもあり、各自が意識して選びとっている割合はそう大きくはないでしょう。一応はこう分けてみることで、全体の把握がしやすくなる方便です。

 ただ、これはなかなか面白い現象ではあって、五弦でも片方にベラ・フレックのような人がいれば、いわば対極には Dirk Powell のような人もいるし、一方で Abigail Washburn のような人も出てくるのを見ると、バンジョーという楽器に備わる性格の現れとも見えます。

 さらに言えば、アイリッシュで使われるテナー・バンジョーは、他ではほとんど見ることがありません。フィドルやアコーディオン、フルートなどの笛、そしてバグパイプは広範囲な音楽で多種多様の使われ方をしていますが、バンジョーだけは、他にはディキシーランドをはじめとするニューオーリンズの土着音楽ぐらいです。アメリカで奴隷たちの想像力によって生まれた折衷ないし混血楽器というバンジョーの出自からすれば、アメリカとアイルランドの強い結びつきを示すとも言えそうです。しかし、レパートリィでは共通するものの多いスコットランドにすら、バンジョーが広まっていないのは、この楽器の不思議の一つでもあります。バンジョーでストラスペイをやっても結構カッコいいのではないかと想像したりもしますが。

 閑話休題。昨日は、質疑応答でも味のある質問をいただき、話がふくらみました。バンジョーにはそうした深みに誘う力、というと大袈裟かもしれませんが、どこかそうした魅力があるともみえました。

 昨日聴いた音源を挙げておきます。

Mike Flanagan (1898-?, Watrerford)
Paddy In London (1942), from Treasure Of My Heart

Treasure of My Heart
Various
Ace Records
1993-08-31

 

Barney McKenna of the Dubliners
The Mason's Apron (live), from The New Electric Muse

New Electric Muse
Various
Essential
1996-08-12

 

Gerry O'Connor of Tipperary
The Findhorn Set=Sean Sa Ceo; The Glass Of Beer; The Sailor's Bonnet, from Myriad

Myriad
GERRY O'CONNOR
MYRIAD
2017-06-16

 

Cathal Heyden
The Liverpool Hornpipe/ John Mosai MC Ginleys, from Live In Belfast

Live in Belfast
Cathal Hayden
Hook
2007-03-19

 

John Carty
Steam Packet/ Kiss The Maid Behind The Barrel, from I Will If I Can

I Will If I Can
John Carty
Racket
2009-06-01

 

Angelina Carberry
Dermot Crogan's Jig/ Hardiman's Fancy, from An Traidisiun Beo

Traidisiun Beo
Angelina Carberry
Imports
2008-04-15

 

Shane Mulchrone
Cuaichin Ghleann Neifinn (Air), from Solid Ground


 いつものことですが、講師の高橋創さんには多くのことを教わり、感謝しています。トシバウロンにもいつもながら達者な司会進行でありがたいことでした。そして会場の本屋B&Bのスタッフの皆さまにも感謝。本屋で飲むビールはなぜか旨いですね。(ゆ)

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