クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:雑誌

4月24日・土

 『《まるい時間》を生きる女、《まっすぐな時間》を生きる男』の訳者あとがきは各種書評からの引用を紹介した、浅倉さんとしては通り一遍のもので、どうやら頼まれ仕事らしい。著者ジェイ・グリフィスについてもこの時はまだあまりよくわかっていなかった。というより、この本となぜか第3作の Anarchipelago が挙げられていて、この2冊を書いた人、というだけの存在。本書も、第2作の Wild も評価は高かったが、センセーショナルな存在ではなかったのだろう。彼女が注目を集めたのは Extinction Rebellion のオクスフォード・サーカス占拠とそれに続く裁判によってらしい。
 F&SF2021-03+04着。Sheree Renee Thomas 編集長最初の号。巻頭に挨拶。文章はいいし、特殊な状況の中で出発することの覚悟と不安がにじみ出ているが、勇ましい宣言もなく、これまで積み重ねられてきたものを受け継いでゆきます。トマスは作家よりは編集者であるらしいから、エドワード・ファーマン以降、ゴードン・ヴァン・ゲルダーを除けばいずれも作家が本業だった歴代編集長に比べれば、続いている雑誌の重みが実感できる、というところか。Akua Lezli Hope の詩を二つ、フィーチュアしたのがまずは新機軸。それと書評の位置がぐんと後ろに下がった。これまでは最初の小説作品の次だったが、巻頭から3分の1ほどのところになった。

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 ヘッドフォン祭オンライン、Shanling N30 はちょと面白い。ようやくこういう形の製品が出てきた。モジュール式にして、ユーザーがモジュールを交換して常に最新式にできる、というのは Cayin N6 が始めた手法で、それを徹底させているのは面白い。ただ、ではその母艦は何が変わらないのかが、よくわからない。今後、どんなモジュールを出すか、母艦の更新の頻度など、もう少し様子を見たいな。それに FiiO 製 DAP の THX アンプは捨てられない。THX の据置きアンプを調達する手もないことはないが、散歩に持って出るから、DAP に内蔵されているメリットは大きい。(ゆ)

4月16日・金

 Asimov's の最新号が配信になって、早速ダウンロードして編集長巻頭言に眼を通す。と、なんと、F&SF の編集長に就任したばかりの Sheree Renee Thomas がアシモフ誌の書評担当になるという。こういうのアリか。たとえて言えば『文學界』の編集長が『群像』の書評を書くようなもんではないか。まさか、合併なんてないよな。

 Michelle West が4ヶ月ぶりに消息を出す。右肩をケガしたり、家の台所の水廻りの改修があったりでたいへんだったらしい。もちろんパンデミックの中でのことでもある。

 火曜日、日本時間水曜日にヒューゴーの最終候補が発表になっていた。長篇とノヴェレットは全部女性、他も圧倒的に女性が多いのはここ数年の傾向で、前世紀とは完全にひっくり返っている。それだけ女性の投票が増えたこともあるのだろう。

 長篇は予想の範囲内。スザンナ・クラークが入ったのはちょと意外ではある。ネビュラと両方ファイナルに入った。ネビュラと重なっているのは
 
Network Effect, Martha Wells 
The City We Became, N.K. Jemisin
Black Sun, Rebecca Roanhorse

受賞はずばり Rebecca Roanhorse と予想しよう。

Black Sun (Between Earth and Sky)
Roanhorse, Rebecca
Gallery / Saga Press
2021-06-29







 また
 
A Wizard’s Guide to Defensive Baking, T. Kingfisher

 がネビュラとヒューゴーの Young Adult 部門の賞 Lodestar に入っている。

Elatsoe, Darcie Little Badger

 がネビュラの YA 部門 Andre Norton と Lodestar に重複。

 ノヴェラはとうとう Tor.com Publishing で独占された。

 ノヴェレットにアリエット・ド・ボダールが入っているのは嬉しい。が、まあ受賞は無理だろうなあ。

 ヒューゴー最終候補で

“Helicopter Story”, Isabel Fall (Clarkesworld, January 2020)
“Monster”, Naomi Kritzer (Clarkesworld, January 2020)

 が Locus 推薦リストにない。しかもこの二つ、同じ雑誌の同じ号の掲載だ。

 ショート・ストーリィでは

“Metal Like Blood in the Dark”, T. Kingfisher (Uncanny Magazine, September/October 2020)

 が Locus 推薦リストにない。


 Best Series のうち存在を知らなかった The Daevabad Trilogy, S. A. Chakraborty は中東ベースの架空世界の話で、Netflix で映像化が予定されている。この人も女性で、名前からするとインド・パキスタン系か。

 Best Related Work に Lynell George のオクタヴィア・E・バトラーの伝記が入っているのが面白い。著者も若い黒人の女性。特にSFFのファンや関係者ではないらしいところが面白いんだが、ヒューゴーでの評価はどうか。今、ぼちぼち読んでるところで、カリフォルニア州サン・マリノにある Huntington Library 所蔵のアーカイヴにあるバトラーの遺品、草稿、メモなどを材料にして、ヴィジュアルと文章でバトラーの作家への歩みを浮かびあがらせる。 LOA のバトラーの巻の編者の一人 Gerry Canavan も薦めていた。獲れるといいな。LRB に書評があった。


 

 しかしこの部門の最終候補に上がっているタイトルは Locus Recommended に1冊も入っていない。これも面白い。

 Best Graphic Story or Comic にそのバトラーの Parable Of The Sower のグラフィック・ノヴェルがあるのにちょっと驚く。これは知らなかったから、買ってみよう。今やっているバトラーの Parable 二部作の第一部。ということは第二部の Parable Of The Talents も出るんだろうな。Sower の初稿は脱稿しているが、参考になるかな。アマゾンを見たら、Kindred もグラフィック・ノヴェルが出ていた。アメリカも増えてきたなあ。


 

 今回の世界SF大会 DisCon IIIは史上初のゲスト・オヴ・オナーの招待取消があったり、会場になるはずのホテルが倒産して、急遽新たな会場を探す羽目になったり、いろいろ大変だ。結局新会場は確保できたものの、日程が変更になった。いつもは8月で、ヒューゴーの発表は各種の賞のしめくくりだったが、今年は12月で、ほぼ1年遅れになるわけだ。


 散歩でインターバル速歩を本格的にやってみる。ゆっくりと速歩を3分交替で5本、30分。結構きつい。最後の速歩を終るとはーはーぜーぜー。その後、いつもの歩きにもどるまでかなりの時間を要する。今日は下りと平坦地でやってみる。次は登りも入れるか。(ゆ)

 F&SF すなわち Fantasy & Science Fiction, さらに正確には The Magazine of Fantasy & Science Fiction がこの秋創刊70周年を迎え、最新号はその記念として All-Star Issue になっている。久しぶりに Robert Silverberg の名前が表紙にあって、何を書いたのかと見てみたら、小説ではなくエッセイだった。

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 "Three Scores and Ten" 直訳すれば「20の3倍と10」だが、これは日本語で言えば古希にあたる年齡を表す決まり文句。そう題されたエッセイは70年前、まだ作家になる前、10代前半のシルヴァーバーグがこの雑誌の創刊を知り、いかにそれを待ちこがれたか、から回想している。35セントという定価が当時、いかに高く、清水の舞台から飛びおりるつもりで買ったかということ。The Magazine of Fantasy と題された創刊号はあまり好みではなかったが、The Magazine of Fantasy and Science Fiction とタイトルの変わった2号、3号と読むうちに無くてはならぬものになったこと。そして早速に作品を送り、当然のことながらてんで相手にされなかったこと。次々に送るうちに、返却される原稿に付いてくる断り状がはじめは印刷された定型のものだったのが、やがて編集長アンソニー・バウチャーの手書きのものになり、ついにはもう一息だから次作を期待するという返事をもらったこと。直後、ニューヨークのコンヴェンションでバウチャー本人に会え、あらためて励まされたこと。帰って書き、送った作品に対して、ついに、とうとう、採用を知らせる手紙が来たこと。そこにはこれを皮切りに、多数の作品を期待すると書かれていたこと。1957年5月号にその短篇 "Warm Man"(未訳)が掲載され、表紙に自分の名前が出たこと。

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 シルヴァーバーグが F&SF に発表した作品はしかし多くはない。長篇2本に中短編が12本だ。しかし中短編のうちの1本は Born with the Dead で、掲載されたのはシルヴァーバーグの個人特集号だった。長篇の1本は Lord Valentine's Castle で、単行本に先立ち、4回にわたって分載されている。

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 個人特集号の話が来たときのことは、OTHER SPACES, OTHER TIMES (2009) で別に回想している。F&SF の個人特集号は新作、第三者による論評、そして当時までの詳細な書誌を掲載するもので、表紙ももちろん本人を描く。その数は少なく、対象となったのは例外的な書き手だ。1974年という時点でその対象に選ばれたことはシルヴァーバーグにとっては一握りのトップ作家の1人として認められたことだった。その抜擢に応えて書いたのが Born with the Dead、邦訳は佐藤高子さんによる「我ら死者とともに生まれる」。1960年代に新生シルヴァーバーグと呼ばれた大化けをしたかれがさらに一段、作家としてのレベルを上げたものであり、生涯の代表作の一つとなった。この結末の部分は、妻とともに映画を見ていて思いつき、上映の終った映画館の座席で一気に書きあげたという。




 『ヴァレンタイン卿の城』は1980年代開幕とともに登場し、マジプーアのシリーズの幕を切って落とした。シルヴァーバーグの厖大な作品群の中で、一つだけ挙げよと言われれば、ためらわずにこのシリーズになるだろう。ルーシャス・シェパードと同様、あるいは同期のエリスン同様、シルヴァーバーグもシリーズ化をはじめから意図して書くことをしていない。そしてこのシリーズも2本の長篇よりも、2冊にまとめられている中短編の方が面白かったりする。

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 F&SF 初登場が1957年という、かれのキャリアの中で早い時期であるのも興味深い。シルヴァーバーグのプロ雑誌デビューは1954年、19歳の時で、この年は2本。翌年も2本。その次、1956年が大当りの年で、一気に54本にジャンプする。3年めの1957年には実に85本の作品を発表している。2週間に3本だ。その中にこの1本がある。次に F&SF に載るのは1958年2月。さらにその次は5年あいて、1963年2月のショートショート、さらに5年あいて1968年10月のノヴェレット。この時はもうニュー・シルヴァーバーグになっていたはずだ。

 「小説工場」の異名をとり、各種ペンネームを使い分け、同じ雑誌の同じ号に複数の作品が載ることはごく普通で、時にはある雑誌の1冊まるまる全部かれの作品だけで埋まっていたこともある、その中で F&SF デビューを果している。F&SF は作品の質の高さがウリであり、そこに採用されるようシルヴァーバーグが必死になったのもそのためだ。かれは生活のために書きなぐりながら、当初からクオリティのより高い作品を書こうと努力していた。1960年代半ばにフレデリック・ポールの Galaxy 誌を舞台にそれまでとは見違えるように質の高い作品を書き出し、New Silverberg と呼ばれたのは突然変異ではなく、下地はすでにできていて、チャンスを待っていたのだ。

 おそらくシルヴァーバーグだけではなく、エリスンにしても、ギャレットにしても、シェクリィにしても、当時の若い書き手にとって、F&SF誌は作家としての技量と器を磨き、作品の質を高めるための動機となってもいたのだ。こういう存在、これもロール・モデルと呼べるだろうが、それもまた今の時代には消えようとしているものの一つだ。とはいえ、小説、ここではサイエンス・フィクション、ファンタジィ、ホラーの小説とりわけ中短編ではオンライン・マガジンを含めた雑誌は選抜システムとして、フィルターとして機能している。代表的なオンライン・マガジンである Clarkesworld に送られてくる原稿の数は毎月1,000本を下らないというのだから。(ゆ)

 つい先日創刊40周年記念号を出した fRoots 誌が休刊を発表した。事実上の廃刊だろう。だしぬけの発表で、40周年記念号巻頭では、編集長を降り、次代へ引き継ぐことに楽観的な見通しを編集長アンダースン自身が書いていたから、驚かされた。

 一方で、やはりそうだったか、という感覚も湧いてきた。Kickstarter による資金調達の成功にもかかわらず、その結果は季刊への移行だったし、編集長を次の人間に讓る意向をアンダースンが表明してからも、具体的な進展は示されないままだった。草の根資金調達で得られた資金はつまるところ、リーマン・ショックによる広告収入の激減で負った多額の負債の返済にあてられたことも、わかってきていた。

 ふり返ってみれば、この雑誌は創立者で編集長のイアン・アンダースンの個人誌だった。協力者や執筆者には事欠かなかったにしても、カヴァーする音楽の選択、取り上げる角度やアプローチの態度を決めているのはひとえにアンダースンの嗜好であり、感覚だった。その雑誌が時代からズレるというのは、必ずしもアンダースン自身の感覚や嗜好が時代とズレているからではないだろう。紙の定期刊行物は音楽シーンをある角度で切り取って提示する。その角度の意外性で勝負する。fRoots はその点では際立っていた。端的に言えば、その表紙にとりあげられたことで初めて教えられた優れたミュージシャンたちの多さだ。あるいは既存の、よく知られたミュージシャンでもその表紙になって、新鮮なリブート体験を我々は味わうことになった。

 雑誌制作の性格としては中村とうようの『ニュー・ミュージック・マガジン』に似ていなくもない。ただし、アンダースンと中村では、音楽業界への態度は対極ではあった。業界への影響力を確保することを目指した中村に対し、アンダースンは業界と馴れ合うことを避け、常に一線を画した。ミュージシャンとリスナーの側に立っていた。音楽はミュージシャンとリスナーのものであり、レコード会社や著作権管理会社のものではない、という態度だ。そこが fRoots と Songline の決定的な違いであり、だからこそ fRoots は信頼できたのだった。しかし、おそらくはこのことが、fRoots 存続の可能性を断ったのではないかとも思われる。

 fRoots の手法は媒体が限られていて、ヨーロッパのルーツ・ミュージックに関しては fRoots ないしその前身の Folk Roots がほとんど独占状態だった時には絶大な効力を発揮した。年2回、付録につくサンプラーCDを、我々はまさに垂涎の想いで手にしたし、また期待は裏切られなかった。Songline はカタログ雑誌にすぎなかったから、fRoots を補完するものではあっても、その存在を危うくするものではなかった。

 今世紀に入り、情報の媒体が紙からネットに移る頃から fRoots の存在感が薄れだす。むろん、変化は徐々で、初めはそうとわからない。はっきりしてきたのは2010年代に入ってからだ。いや、たぶん、2008年のリーマン・ショックは fRoots の媒体としての影響力が低下していた事実を明るみに出したのだ。

 fRoots のセレクション、プッシュするミュージシャンと録音の選択やその評価の内実が劣化したわけではない。その点では、各種ネット・マガジンも含めて、最も信用のおけるもので、肩を並べられるものはない。音楽雑誌編集者としてのアンダースンはやはり20世紀最高の1人であることはまちがいない。しかし、情報環境の変化は、意外性を主なツールとした fRoots の手法を不可能にした。紙では遅すぎたし、肝心の音を聴かせることもできず、意表を突くことができなくなったのだ。そして、経営者としてのアンダースンは、その環境に適応することがついにできなかった。

 環境の変化に適応することができなかったとアンダースンを非難するのは不当というものだ。それができている経営者も編集者も、今のところいないのだ。成功しているのはすべて新たに出現した手法であり、人びとだ。パラダイム・シフトが起きるとき、古いパラダイムを担っていた人びとが新たなパラダイムに適応したり、転向したりして起きるわけではない。古いパラダイムを担っていた人びとが新たなパラダイムを持った人びとにとって換わられて、パラダイムは転換する。

 紙の媒体、とりわけ音楽誌のような情報提供を主な機能とする媒体において、今起きているパラダイム・シフトを生き延びる方策を見つけ、あるいは編み出した人間はまだいない。カタログ雑誌つまり宣伝機関としては別だ。それは機能が異なる。fRoots のような、批評すなわち価値判断を含む情報を提供する媒体は消滅しようとしている。メディアは何が出ているか、知らせればいい、価値判断はリスナーがそれぞれにくだすのだ、というのが趨勢なのだろう。しかし、リスナーは本当に自分にとって適切な判断を下せるのか。その判断の基準は何か。

 判断基準は知識と経験によって作られる。ここで肝心なのは、快楽原則による経験のみではうまくいかないことだ。聴いて気持ちがよいものを選ぶだけでは、使える判断基準を作れない。ひとつには「気持ちがよい」ことに基準が無いからだ。もう一つには、砂糖や阿片のように、無原則な快楽追及はリスナー自身の感覚を破壊するからだ。だから、批評すなわち知識が必要になる。批評とは対象のプラス面だけでなく、どんなものにも必ずあるマイナス面も把握し、両者の得失を論じ、全体として評価する行為だ。片方だけでは批評にならない。

 fRoots の重要さはそこだった。世に氾濫する音楽に対して、批評を働かせていた。しかもその軸がぶれなかった。音楽伝統に根差したものであること。伝統へのリスペクトがあること。ミュージシャン自身に音楽表現へのやむにやまれぬ欲求があること。この雑誌が選び、プッシュする音楽は聴いて楽しく、美しく、面白く、哀しい。そして時間が経ってもその楽しさ、美しさ、面白さ、哀しさが色褪せない。かつて付録についていたCDを今聴いても、面白さは失せていないし、それどころか、今聴く方が面白い場合も少なくない。その時、流行っているから、売るために金をもらったからプッシュするのではなく、他の様々な音楽と並べてもより広く聞かれる価値があると判断してプッシュしていたからだ。

 現在とってかわろうとしている新たなパラダイムは、批評を必要としないのだろうか。対象に無条件に没入することは一時的には至福かもしれない。一方で、中毒の危険性は致命的なまでに高い。対象から一度距離をとり、その利害得失を冷静に測ることは、あるドラッグの性格と致死量を測定することに等しい。そのドラッグによってどのような体験が可能となり、どこまでは致命的な中毒に陥らずに摂取できるか。それは、いつ、どこにあっても、何に対しても重要だ。そして現在は、新たなドラッグ、摂取の仕方も効果も致死量も様々に異なるドラッグが、日々考案され、リリースされている。入手も従来より遙かに簡単だ。ドラッグは何もヘロインやアルコールやニコチンや砂糖だけではない。中毒性のあるものは何でもドラッグになる。テレビもゲームもSNSも、音楽もアニメも演劇も、すべてドラッグになる。むしろ、批評が必要とされていることでは今は空前の時代なのだ。新たなパラダイムにふさわしい批評のあり方、手法や伝達方法がまだ見つかっていないだけなのだ。

 fRoots にもどれば、たとえ雑誌の継続発行は途絶えても、この雑誌が築いてきた批評が消滅するわけではない。40年間の蓄積もまた、他には無いユニークなものだ。

 とりあえず、イアン・アンダースンよ、長い間、ご苦労様。ありがとう。ゆっくり休んで、あなたのもう一つの顔、優れたミュージシャンとしての活動に本腰を入れてくれますように。(ゆ)

    われわれのような貧乏人はバブル崩壊からこちらずーっと不況で、ゼロ金利でカネを吸いあげられ、税源の地方移譲の形で増税され、健康保険料は毎年上がり、これでもっと買い物をしろ、カネを使えといわれたって、もう絞られつくして鼻血も出ないよ。だいたい、景気回復したところで、潤うのは大企業や天下り官僚ばかりで、そこの社員も含めて、まっとうな暮らしをしようとしている人間には恩恵はまったくないことは、この10年で身にしみたからねえ。景気なんて回復しなくていいから、貧乏でもいいから、もっとのんびりと暮らしたいもんだ。
   
    だからいくら不況だと言われても、それでダメージを受けるのは金持ち連中と大企業や天下り官僚も含めてそこにたかってるやつらだけで、こちとらカンケーネーと思っていたら、今月号の fRoots だ。わざわざ1ページ使って、助けてくれと訴えている。先日の PASTE の「救済キャンペーン」にも驚いたが、こっちはもっとびっくりした。こうなってくると確かに不況は他人事ではない。
   
    fRoots は広告への依存が比較的少なく、読者層も強固だから、今すぐどうこうなるという状態ではないと書いてるし、イアン・アンダースン編集長の口調もいつもの軽妙なものだが、こういう訴えをせざるをえなくなっていること自体、かなりの危機感を抱いていることのあらわれだろう。これまでと同じ調子では早晩本物の危機がやってくると踏んでいる。
   
    そもそもこの雑誌は世の流行を追いかけることはせず、自分たちがおもしろいと信じた音楽を追いかけてきた。レコード会社とのタイアップなんてやったことはないし、ライヴやソフトの評価にしても、中味のないものを持ち上げたこともない。だから、誰も知らない音楽や音楽家をとりあげて驚かせても、ぼくらはかれらのセレクトを信じる。ここで最初にとりあげられたものが、後で流行することはよくある。
   
    この雑誌で良いと書かれていれば、評価しているやつは本気で良いと思っている。誰かに頼まれたからと、思ってもいないこと、感じていないことを書くことはない。そういう信頼があるから、われわれはこの雑誌に書かれていることを信用する。たとえ自分の評価とは違っても、書いている人間の誠実さを疑うことはしない。
   
    読者の年間CD購入数の平均が50枚を超えるというのも、そういう信頼の上に築かれてきたのだ。
   
    この数字はたぶん世界一ではないか。どこの国のどの音楽雑誌の編集者、発行人でも、うらやましく思わない人間はいまい。
   
    その雑誌に広告を出さなくなっている、というのはいかにレコード会社が苦しいか。ここに広告を出しているのは、メジャーは少なく、ほとんどは各地のインディーズだ。ここに出すかわりにどこか他の媒体に打つというのも考えられない。広告といっても、ミュージシャン名、アルバム・タイトル、ジャケ写をならべるくらいで、むしろ「こんなん出てます」という告知に近い。
   
    fRoots の場合、まだ救いがあるというのは、ライヴに足を運ぶ人の数は減っていないのだそうだ。あちらはこれからフェスティヴァル・シーズンだが、各フェスの前売券の売れ行きも好調で、対前年比10%増というフェスもあるらしい。海外へバカンスに行っていた人たちが、フェスに回っているのかもしれないが、まずはめでたいことではある。
   
    あちらのフェスティヴァルは、ごく限られた年齢層が集まるわが国のものとはちがって、家族ぐるみで遊びに行ける。それこそ生まれたての赤ちゃんから、じじばばまで、楽しめる。
   
    もちろん、そこには、どの車もタダである高速道路とか、広くて使いやすい公園とかのインフラがあり、さらにはこうしたイベントに様々なかたちで便宜をはかり、カネをつぎこむ地方自治体がある。造るときだけカネをかけるハコモノとはちがって、フェスティヴァルは数万から数十万の人間が毎年集まる。そこで生みだされる音楽(だけとはかぎらない)がまず財産だが、その場でこの人たちがつかうカネだって相当なものになるはずだ。
   
    だが地元はそれでよいとして、ぼくらのような遠くにいる人間には、CDであれ、LPであれ、レコードのリリースが減ったり、インディーズ・レーベルが倒れるのは困る。ひじょうに困る。ネット上でアクセスできる音源は、iTunes や ネット・ラジオはじめ多々あるにしても、まだパッケージに完全に置きかわるものでもない。ネットでリリースするのは、それなりに結構カネがかかるものらしく、メジャーはともかく、ぼくらが聞いているようなルーツ系のインディーズはまだまだ圧倒的にCD依存の世界だ。CDはとにかく製造・流通コストが安い。こんにちのルーツ・ミュージックの隆盛は、パッケージの主流がCDになったことが大きな要因であるのだ。
   
    不況を引き起こした経済活動の恩恵をまるで受けていないのに、不況の被害は直接・間接に受ける、それもひとつの方向からだけではなく、多方面から受ける、というのはまったく理不尽だ。不条理だ。詐欺だ。責任者出てこい。責任をとれ。腹を切れ。
   
    責任者に腹を切らせたからって、状況が良くなるもんでもないが、少くともけじめにはなる。けじめになるということは、気持ちが切り替えられる。あらためて取り組みなおす気分になれるのだ。

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