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「時空を超えるジャズ史」第8回「エレクトリック・ジャズとフュージョン:70年代ジャズから21世紀ジャズへ」
《30 Days Of Dead》2024
ジョーン・ディディオン
01月12日・水
LOA のニュースから今月8日、87歳で亡くなった Joan Didion の "After Henry" を一読。親友で、頼りにしていた編集者の Henry Robbins 追悼文。1979年7月、出勤途中、マンハッタンの地下鉄14番街駅でばったり倒れて死ぬ。享年51歳。追悼式ではドナルド・バーセルミ、ジョン・アーヴィング、最初の版元 Farrar, Strauss & Giroux の Robert Giroux、最後の版元 Dutton の John Macrae が弔辞を述べた。1966年、Vogue で働きながら書いていた自分と夫を見出し、一人前のライターに育ててくれた。 FSG で出発し、ヘンリーがサイモン&シュスターに移ると一緒に移る。ヘンリーがダットンに移った時には契約が残っていたので、ついていかなかった。取り残された孤児と感じた。1975年のある晩、バークレーで、かつてその講義を聞いた教授たちの前で講演をすることになり、死ぬほど怖かった。そこへヘンリーが現れ、講演の部屋までつき添い、大丈夫、うまくいくと太鼓判を押してくれた。その言葉を信じた。ベストセラー作家でも駆け出しでもない中途半端の位置にいる著者が脅えているのに、飛行機でニューヨークから駆けつけるなんてことは、本来、編集者がやるべきことではない。ヘンリーが言うことは何でも信じたが、3つだけ、信じなかったことがある。1つは2冊目の長篇 Play It As It Lays のタイトルが良くないこと。2つめは3冊目の長篇 A Book Of Common Prayer 冒頭二つ目の文章を二人称で書いたのは良くないこと。3つめがこの文章のオチであり、そしてこれ以上はないオマージュになっていること。感心する。この人はスーザン・ソンタグの1歳下で、カリフォルニアの出身。ソンタグよりもデッドに近い。LOA のディディオンの巻の編者 David L. Ulin の観察は興味深い。
カリフォルニアに住んでいれば、「アメリカ」というものを、合州国の国境を超えて、より広く、より包括的な形で考えないわけにはいかない。ディディオンは、カリフォルニアとの関連と国全体での議論との関連の双方で、こうした(ラテン・アメリカとの)つながりを把握していたことから、関心を抱いたのだと思う。
グレイトフル・デッドもまたカリフォルニアの産物だ。してみれば、たとえまったく同じ人間が揃ったとしても、モンタナやテキサスではデッドは生まれなかった。ロサンゼルスでも無理だろう。やはりベイエリアだ。ディディオンもサクラメントの生まれ。ソンタグが60年代をニューヨークから俯瞰したとすれば、ディディオンはそれをカリフォルニアのベイエリアから見たのではないか。よおし、読みましょう。
##本日のグレイトフル・デッド
01月12日には1979年に1本ショウをしている。公式リリース無し。
1. 1979 The Spectrum, Philadelphia, PA
前年11月28日の公演の振替え。7.50、8.50ドル。開演7時。外は吹雪。第一部クローザー〈Deal〉ではガルシア、ウィア、ドナが声ですばらしい即興をした。
会場は1967年09月オープン、2009年10月閉鎖の屋内アリーナで、収容人数はコンサートでは18,000から19,500。コンサート会場としてメジャーなアクトが頻繁に使用した。オープンから1996年まで、ホッケーの Philadelphia Flyers、バスケットの Philadelphia 76ers の本拠だった。
デッドは1968年12月から1995年03月まで、計53本のショウをここで行なう。うち完全版3本を含む7本が公式リリースされている。
デッドが演奏した会場を見てゆくと、すでに閉鎖されているところが目につく。アメリカではこうした大規模な施設はどんどん建替えられている。残っているところも改修拡張されている。ホッケーやバスケットなどプロ・スポーツ・チームが本拠にするようなところは、今では2万は優に超えるのが普通だ。(ゆ)