クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

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 グレイトフル・デッド公式サイトで毎年恒例の《30 Days Of Dead》、昨年のリリースから1979年3本目は 1979-05-07, Allan Kirby Field House, Lafayette College, Easton, PA から〈Passenger〉。

 Peter Monk 作詞、フィル・レシュ作曲で、このコンビの曲はこれしかありません。1977年05月15日にセント・ルイスで初演。1981年12月27日、オークランドが最後で、計99回演奏。演奏された期間は短いですが、頻度はかなり高い。レシュの曲ですが、この頃はかれはヴォーカルをとらないので、初演からしばらくはドナとウィアのコーラスで歌われました。

 レシュの曲としては珍しく、シンプルで軽快なロックンロール。《30 Days Of Dead》ではリリースの多い曲で、2011、2012、2013、2014、2016、2019年と6回登場しています。とられたショウは以下の通り。

1977-05-26, Baltimore Civic Center, Baltimore, MD
1977-10-07, University Arena (aka The Pit') , University Of New Mexico, Albuquerque, NM
1979-05-07, Allan Kirby Field House, Lafayette College, Easton, PA
1979-11-24, Golden Hall, San Diego Community Concourse, San Diego, CA
1981-02-26, Uptown Theatre, Chicago, IL
1978-05-07, Field House, Rensselaer Polytechnic Institute, Troy, NY

 このうち2013年に登場した 1979-05-07 が今回もリリースされました。このショウの SBD は外には出ていません。Internet Archives にあるものは AUD のみ。かなり上質の AUD ではあります。

 ショウは05月03日からの春のツアーの4本目。このツアーは05月13日メイン州ポートランドまでの計9本。春のツアーとしては短め。ブレント・ミドランドが加わって最初のツアーはやはり試運転の意味もあったのでしょう。なお、第二部後半 space の後のクローザーに向けてのメドレー〈Not Fade Away> Black Peter> Around And Around〉にクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスのジョン・チポリーナが参加しています。午後8時開演。料金10.50ドルのチケットが殘っています。

 〈Passenger〉はショウの第一部クローザー。オープナー〈Don't Ease Me In〉から快調に飛ばします。ガルシアの歌もギターも水を得た魚のよう、というのはこういう状態を言うのでしょう。〈Big River〉ではミドランドが早速電子ピアノでソロを任されています。それも、3コーラスという大盤振舞い。ガルシアもノってきて、ソロをやめません。その後も見事な演奏が続きます。〈Tennessee Jed〉はガルシアの力強いヴォーカルもこの曲特有のおとぼけギターも冴えわたって、この歌のベスト・ヴァージョンの一つ。〈New Minglewood Blues〉では再びミドランドが今度はハモンドのサウンドでいいソロを聞かせ、ウィアが粋なスライド・ギターで反応します。

 〈Looks Like Rain〉はウィアが独りでドナの分までカヴァーしていますが、〈Passenger〉ではミドランドと2人で歌います。ガルシアはスライドでおそろしくシンプルなのに聴きごたえのあるフレーズをくり出します。2度目のソロは一転してバンジョー・スタイルの速弾き。どちらも、ギターを弾くのが愉しくてしかたがない様子。

 これは良いショウです。Internet Archives でも7万回以上の再生。《30 Days Of Dead》で何度も出すくらいなら、さっさと全部出してくれい。(ゆ)

 グレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead 2022》での1979年の2本目、12日の1979-12-01, Stanley Theatre, Pittsburgh, PA から〈Althea〉。

 このヴェニュー二夜連続の二晩目。前日は午後7時開演なので、おそらく同じでしょう。07日のインディアナポリスとの間にシカゴで三連荘をしています。

 第二部5曲目 space 前で〈C C Rider〉が初演されています。ウィアの持ち歌であるブルース・ナンバー。原曲はマ・レイニーが1925年に〈See See Rider Blues〉として録音したもので、おそらくは伝統歌。1986年までは定番として演奏されますが、それ以後はがくんと頻度が減ります。1987年のディランとのツアー用にリハーサルされましたが、本番では演奏されませんでした。最後は1992年03月16日のフィラデルフィア。計127回演奏。

 翌日、同じ街でザ・フーのコンサートがあり、ロジャー・ダルトリーとピート・タウンゼントが見に来ていたそうです。

 〈Althea〉は第一部クローザーの〈The Music Never Stopped〉の前で8曲目。この年8月4日オークランドでデビューしたばかり、これが14回目の演奏。1995-07-08のシカゴ、ソルジャーズ・フィールドまでコンスタントに演奏され、計271回。この時期にデビューしたハンター&ガルシアの曲としては最も演奏回数の多い曲です。全体でも51位。今回の《30 Days Of Dead》でも25日リリースの 1983-09-04, Park West Ski Area, Park City, UT からのトラックにも含まれています。

 そこでも書きましたが、何を歌っているのか、まだよくわかりません。わからないままに、でもこれは傑作だと思います。もっとも楽曲の魅力に感応するまで、かなり時間がかかりました。ガルシア流スロー・バラードとも違って、はじめはむしろ単調に聞えました。〈Sugaree〉や〈Black Peter〉に近いでしょうか。良いと思えだしたきっかけもよくわかりません。くり返し聴くうちに、いつの間にか、出てくるのが愉しみになっていました。

 "Althea" がここで人名であるのは明らかですが、本来は植物の名前、和名むくげ、槿または木槿とされるもの。原産は中国ですが、世界各地に広まっていて、本朝でも野性化しています。園芸用、庭園用としても植えられている由。韓国の事実上の国花。旧約聖書・雅歌に出てくる「シャロンの薔薇」に比定する説もありますが、「シャロンの薔薇」が実際に何をさすか定説は無いとのこと。

 人名としてはイングランドの詩人 Richard Lovelace (1618-1658) の詩 "To Althea from Prison" (1649) が引合に出されます。王の側近なので実名を出せない女性へのラヴソング。こうした仮名としての女性名としてハンターは "Stella" を使っていて、これが2番目。〈Stella Blue〉はガルシアのスロー・バラードの代表作ですが、この〈Althea〉も勝るとも劣らぬ名曲です。

 またギリシャ神話の英雄の一人メレアグロスの母親の名前との指摘もあります。

 歌詞には『ハムレット』からの引用も鏤められていますが、だからと言って意味がすっきり通るというようなものでもありません。まあ、こういうものはあーでもない、こーでもないと、聴くたびにいろいろ考えるところを愉しむものでありましょう。

 1983-09-04はだいぶ慣れて、歌いまわしにも余裕があります。歌の間に入れる間奏もいい。

 ここではまだ歌いきる、演りきることに集中していると聞えます。1週間後に較べると、この日のガルシアはずっと元気で、歌にも力があります。あるいはいろいろな歌い方を試しているようでもあります。1983年に較べると、アルシアとの距離が、物理的にも精神的にも、ずっと近い。ギター・ソロもすぐ側にいる相手に語りかけてます。

 オープナーの〈Jack Straw〉から続く15分を超える〈Sugaree〉がまずハイライトで、ガルシアは例によってシンプル極まりないながら、わずかにひねったメロディを重ね、さらにミドランドがオルガンで熱いソロを展開するのにウィアが応え、それにまたガルシアが乗っていきます。誰もがクールに、冷静とも言える態度なのに、全体の演奏はどこまでも熱く、ホットになってゆきます。その頂点ですうっと引く。これがたまりません。引いたと思えば、さらに飽くまでもクールに続く演奏は、あまりにシンプルでひょっとしてトボけているのかと邪推したくなります。この曲が「化ける」のは1977年春のツアーでのことですが、この演奏はその77年のヴァージョンにも劣りません。

 中間はカントリー・ソングを並べます。〈Me and My Uncle〉からそのまま続く〈Big River〉では、ミドランドが電子ピアノで、およそカントリーらしくない、ユーモラスなソロを聞かせます。こういうソロはこの人ならでは。こういうソロが出るとガルシアも発奮して、この曲では珍しくソロをやめません。続くは〈Loser〉。あたしはこの曲がもう好きでたまらんのですが、これは良いヴァージョン。この歌の主人公は実に様々な顔を見せますが、この日の「負け屋」はほんとうに参っているらしく、ほとんど嘆願しています。ガルシアのギターがまた悲哀に満ちています。ミドランドの〈Easy To Love You〉は〈Althea〉とほぼ同時にデビューしています。これまたみずみずしい演奏。〈New Minglewood Blues〉も元気いっぱいで、ダンプが撥ねまわっているようなビートに載せて、ウィアがすばらしいスライド・ギター・ソロをくり出すので、ガルシアも負けてはいません。

 そして〈Althea〉が冒頭の〈Sugaree〉と対になるハイライトを現出して、ガルシアのヴォーカルが全体をぐんとひき締めます。〈The Music Never Stopped〉で締めくくる第一部。この歌は本来ドナとウィアの2人で歌ってこそのところもありますが、ウィアが踏んばって、ドナの不在を感じさせません。今の姿を見ると、生き残ったメンバーで一番良い年のとり方をしているのはウィアですが、こういうのを聴くと、なるほどと納得されます。それに応えて、ガルシアが引っぱれるだけ引っぱって盛り上げる。

 ミドランドへの交替はまずはかなりのプラスの効果を生んでます。(ゆ)

 昨年11月の《30 Days Of Dead 2022》を時間軸を遡りながら聴いています。

 1979年からは今回3本、セレクトされました。
 オープナー01日の 1979-05-07, Allan Kirby Field House, Lafayette College, Easton, PA から〈Passenger〉。これは2013年の《30 Days Of Dead》でリリース済み。
 12日の1979-12-01, Stanley Theatre, Pittsburgh, PA から〈Althea〉。
 そして19日の 1979-12-07, Indiana Convention Center, Indianapolis, IN から〈Eyes Of The World〉。

 1979年には大きなできごとがあります。年頭のツアーの終った2月半ば過ぎ、鍵盤奏者がキース・ガチョーからブレント・ミドランドに交替し、キースと同時にドナ・ジーンも退団します。1970年代を支えたペアがいなくなり、ミドランドは鍵盤兼第三のシンガーとして1980年代を担うことになります。今回の3本はいずれもミドランド・デッドの時期です。

 一つの見方として、デッドのキャリアを鍵盤奏者で区切る方法があります。1960年代のピグペン、70年代のキース・ガチョー、80年代のブレント・ミドランド、90年代のヴィンス・ウェルニク。意図してそうなったわけではありませんが、結果としてきれいに区分けできてしまうことは、グレイトフル・デッドという特異な存在にまつわる特異な現象でもあります。デッドとその周囲にはこうしたシンクロニシティが実に多い。

 この年は珍しく年頭01月05日からツアーに出ます。フィラデルフィアから始め、マディソン・スクエア・ガーデン、ロングアイランド、アップステートから東部を回り、さらにミシガン、インディアナ、ウィスコンシン、オクラホマ、イリノイ、カンザス、ミズーリ州セント・ルイスまで、1ヶ月半の長丁場でした。その途中、ドナがまず脱落し、ツアーが終って戻ったキースと相談の上、バンドに退団を申し入れ、バンドもこれを了承しました。

 前年の末からキースの演奏の質が急激に低下します。その原因はむろん単純なものではありませんが、乱暴にまとめるならば、やはり疲れたということでしょう。デッドのように、毎晩、それまでとは違う演奏、やったことのない演奏をするのは、ミュージシャンにとってたいへんな負担になります。デッドとしてはそうしないではいられない、同じことをくり返すことの方が苦痛であるためにそうやっているわけですが、それでも負担であることには違いありません。

 それを可能にするために、メンバーは日頃から努力しています。もっとも本人たちは努力とは感じてはいなかったでしょうけれども、傍から見れば努力です。何よりも皆インプットに努めています。常に違うことをアウトプットするには、それに倍するインプットが必要です。キースもそれをやっていたはずで、そうでなければ仮にも10年デッドの鍵盤を支えることはできなかったはずです。それが、様々の理由からできなくなった、というのが1978年後半にキースに起きたことと思われます。そのため、キースは演奏で独自の寄与をすることができなくなります。そこでかれがやむなくとった方策はガルシアのソロをそっくりマネすることでした。このことはバンド全体の演奏の質を大きく低下させました。

 最も大きくマイナスに作用したのは当然ガルシアです。ガルシアは鍵盤奏者の演奏を支点にしてそのソロを展開します。鍵盤がよい演奏をすることが、ガルシアがよいソロを展開する前提のひとつです。それが自分のソロをマネされては、いわば鏡に映った自分に向って演奏することになります。その演奏は縮小再生産のダウン・スパイラルに陥ります。

 公式リリースされたライヴ音源を聴いていると、1979年に入ってからのキースの演奏の質の低下が耳につきます。したがって鍵盤奏者を入れかえることはバンドとしても考えなければならなくなっていました。ガルシアは代わりの鍵盤奏者を探して、当時ウィアの個人バンドにいたミドランドに目をつけていました。

 ミドランドがアンサンブルに溶けこむためにバンドは2ヶ月の休みをとり、04月22日、サンノゼでミドランドがデビュー、05月03日から春のツアーに出ます。05月07日のペンシルヴェイニア州イーストンはその4本目です。

 この年のショウは75本。レパートリィは93曲。新曲は5曲。ハンター&ガルシアの〈Althea〉〈Alabama Getaway〉、バーロゥ&ウィアの〈Lost Sailor〉と〈Saint of Circumstances〉のペア、そしてミドランドの〈Easy to Love You〉。

 1979年にはかつての "Wall of Sound" に代わる新たな最先端 PA システムが導入されます。デッドはショウの音響システムについては常に先進的でした。目的は可能なかぎり明瞭で透明なサウンドを会場のできるだけ広い範囲に屆けることでした。〈Althea〉やガルシアのスロー・バラードの演奏にはそうしたシステムの貢献が欠かせません。

 この年は世間的にはクラッシュのアルバム《ロンドン・コーリング》でパンクがピークに達し、デッドはもう時代遅れと見る向きも顕在化しています。一方で、この頃から新たな世代のファンが増えはじめてもいて、風潮としてはデッドやデッドが体現する志向とは対立する1980年代のレーガン時代を通じて着実にファン層は厚くなっていきました。ちなみにデッドヘッドは民主党支持者に限りません。熱心な共和党支持者であるデッドヘッドはいます。

 時間軸にしたがって、まずは 1979-12-07, Indiana Convention Center, Indianapolis, IN から〈Eyes Of The World〉です。第二部オープナー〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が一度終った次の曲で、ここからクローザー〈Johnny B. Goode〉までノンストップです。

 ショウは10月24日から始まる26本におよぶ長い秋のツアー終盤の一本。このツアーは3本後の12月11日のカンザス・シティまで続きます。

 長いツアーも終盤でやはりくたびれてきているのでしょうか。ガルシアの声に今一つ力がありません。全体に第二部は足取りが重い。重いというと言い過ぎにも思えますが、〈Eyes Of The World〉は軽快に、はずむように、流れるように演奏されるのが常ですが、ここでは一歩一歩、確かめながら足を運んでいます。くたびれたようではあるものの、ガルシアはここで3曲続けてリード・ヴォーカルをとってもいますから、踏んばろうと気力をまとめているようでもあります。後半、ギターが後ろに引込んで、もともと大きかったベースと電子ピアノが前面に出て明瞭になります。とはいえ、それによって全体のからみ合いがよりはっきりと入ってきて、ひじょうに良いジャムをしているのがわかります。

 この後はウィアの〈Lost Sailor> Saint Of Circumstance〉のペアから space> drums> space ときて、本来のどん底を這いまわる〈Wharf Rat〉。そしてそのパート3から一気に〈Around And Around〉と〈Johnny B. Goode〉のロックンロール二本立てのクローザー。ここへ来て、ずっと頭の上にのしかかっていたものに耐えていた、耐えて矯めていたものを爆発させます。アンコール〈U. S. Blues〉が一番元気。

 疲れたらそれが現れるのを無理に隠そうとはしません。また飾りたててごまかすこともしない。疲れたなりに演奏し、それが自然な説得力を持つのがデッドです。そして結局演奏することで自らを癒す。より大きな危機も音楽に、ショウに集中することで乗り越えてゆきます。このショウはベストのショウではありませんが、デッドの粘り強さがよりはっきりと聴きとれます。(ゆ)

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