クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:20世紀

 図書館にあったのでとりあえず読んでみる。筑摩書房が1968年に出した『現代世界ノンフィクション全集』16。この巻は「戦後の探検」がテーマで、収録はハイエルダール『コン・ティキ号探検記』、本篇、エフレーモフ『恐竜を求めて——風の道』の3本。他の2本は科学研究を目的とした調査、実験だが、これはスターク個人の愉しみのための旅の報告。

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 エフレーモフは後に作家に転ずるだけあって、これも純粋な調査研究報告ではなく、りっぱな文学作品、スタークの翻訳をし、解題を書いている篠田一士の言葉を借りればりっぱな旅行文学になっているらしい。惜しいことに訳出されているのは『風の道』の第一部、3回の調査旅行の第1回を扱った部分のさらに抄訳。今となっては完訳は望むべくもない。英訳もない。「風の道」とは、モンゴルのゴビ砂漠を渡る隊商路を現地の人びとが呼ぶ名前。エフレーモフはここでの恐竜化石発掘を指揮した。

 コン・ティキ号もゴビの恐竜化石も後日の読書を期し、とにかくスタークの作品の実地につくべく、読んでみたわけだが、これが滅法面白い。

 邦題は一応原題に忠実だが、日本語だとチグリス川に沿って馬でまわった、という印象になる。英語ではチグリス川に向かって馬に乗っていったことを示す。トルコ東部、イランとの国境近くにヴァン湖がある。イラン側のウルミラ湖と双子のような湖で、この間を隔てる山脈は4,000メートルを超える最高峰をもち、富士山より高い嶺がつらなる。ここから南へメソポタミアの平原に向かっては徐々に低くなるものの、険しい峡谷がつづく山岳地帯だ。ヴァン湖の南のイラクとの国境に近い一帯を、東から西へ、国境にだいたい平行に、スタークは旅している。始めと終りは自動車で、最も奥地は馬とらばで旅した。その終りはチグリスの上流で、そこでこのタイトルになる。1950年代後半のある夏のことだ。

 当時、自動車の入れる道はヴァン湖東岸のヴァンから南東、ユーフラテスに注ぐグレート・ザブ川の河畔にあるハッキアリまでしか通じていない。そこから2週間、馬の鞍に揺られて、チグリス上流に注ぐ支流の源流近くの村ミリに至る。ここから先はまた道路が通じていて、自動車で一気にチグリス河畔のシズレを経て、空港のあるディヤルベクルまで行っている。

 もちろんバスやタクシーが走っているわけではない。自動車はどちらもたまたまその方面に行く誰かの車に便乗させてもらう。ハッキアリまでは、地方の子どもたちに種痘をしに回る医師の一家の車だ。この地域に住んでいたのはほとんどがクルド人で、その後クルド独立運動の舞台になっている。おそらく外国人が一人で旅行することは現在では不可能だろう。スタークの頃までの紀行が貴重なのは、今は部外者が入れない地域歩いていることもある。

 医療の提供と治安維持がここがトルコ政府の管轄にあることを示す。このあたりは第二次大戦前までは山賊が跋扈し、あるいはクルド人とアッシリア人(とスタークは書く)の日常的な部族抗争で、やはり部外者は立ち入れなかった。戦後、山賊は討伐・追放され、部族対立の方はアッシリア人が様々な要因から四散していなくなったために終息した。トルコ政府は地域の長官=ワリや町長、村長を任命・派遣し、要所には守備隊を置いた。スタークが宿をとったのはこうした役人のいる集落や駐屯地だ。外来者が泊まれる施設があるわけではない。夜を過ごし、食事をとるのは、どこでも役人たちの家や、集落の中でも富裕な家族の家の一部屋だ。クルド人たちは牧畜を営む。冬を越す村は深い谷の河畔にあるが、夏は谷の上流の上にある台地の放牧地「ヤイラ」で過ごす。スタークは一夜、ヤイラの一つの天幕で過ごし、「開いたテントや、地面の上のキャンプの寝床」の安心感をおぼえてもいる。

 こうした集落をつないでいる道は、ほとんどが川沿いで、馬一頭がかろうじて通れる幅しかないことも普通だ。とはいえ、この地域は小アジアからメソポタミアに抜ける道の1本として古代から使われている。クセノポンの『アナバシス』で有名な紀元前5世紀の一万人のギリシャ傭兵団もここを通っていて、スタークは随所で引用する。ローマ帝国とササン朝ペルシャの国境地帯でもあって、あたりに誰も住んでいないところにローマの遺蹟がぽつんとあったりする。スタークが1日馬で旅して、人っ子一人遭わないことも珍しくないが、昔からずっとそうであったわけではない。

 先輩のガートルード・ベルと同じく、スタークも単独行を好む。途中で、逆方向へ向かうドイツの民俗学調査団と徃きあう。自分が旅行の許可をとるのにさんざん苦労し、おまけに写真撮影を禁止されているのに、相手が多人数で機材もそろえ、写真も撮り放題なのをいぶかる。

 ドイツは第一次大戦前、ギリシャ、トルコ経由でバグダードへ進出する計画を立て、それが大戦の原因の一つになっているが、どこか深いところで親近感を互いに抱いているのか。第二次大戦後、トルコからはドイツに大量に出稼ぎ、移民が出て、ディシデンテンのようなバンドも現れている。ギリシャ、トルコの観光地はドイツからの観光客が占拠するらしい。

 ここで描かれる世界は時間的に半世紀以上前というよりもずっと遠く感じられる。誰かの想像が生んだのではなく、確実に今われわれが生きているこの世界にかつて存在したとはなかなか信じられない。今は消えており、おそらく復活することはない世界でもある。途中、何が起きるわけでもない。ごく平凡な人たちの、毎日の生活が続いているだけだ。土地の住人たちにとっては、スタークの到来そのものが事件である。西欧人がやってくるだけでも異常事態で、しかも女性がひとりでやってくるのは、おそらく彼らの一生に一度のことだったろう。

 スタークにしてみれば、旅につきもののトラブルは多々あるにしても、未知の土地を自分の脚で歩いてゆくことが歓びだ。ただその歓びを味わいたい、それだけのために、あらゆるツテをたどって旅行の許可をとり、あらゆる不便を耐えしのぶ。トイレの問題一つとっても、その不便は表現できるものではないだろう。1ヶ所だけトイレについての言及がある。旅も終わりに近く、ある川の畔の村であてがわれた宿ではトイレが川をまたぐ形で作られていた。自分にとってはありがたいが、下流の住民にとっては問題だ、と書く。

 訳者の篠田一士はスタークの文体を誉めたたえる。

「大変力強い英語散文で、修辞法も堂々としていて、とても女流の筆になったとは思えないほど雄渾な響きをもっている。この文体のかがやきこそ、外ならぬ、女史をイギリス旅行文学のチャンピオンにしているのである」

 「とても女流の筆になったとは思えない」というところは今なら問題にされるかもしれないが、要は「男流」の筆でも珍しいほどのかがやきをその文章は備えているわけだ。

 その雄渾なかがやかしい文章で描きだされたこの世界は、そこだけぽっかりと時間と空間のあわいに浮かびあがる。我々の過去の一部では確かにあったものの、一方でこの世界はまったく独立に成立している。これを幻と言わずして何と言うか。我々の世界の実相が映しだされた幻。幻なるがゆえに明瞭に映しだされた実相。むろん世界全体の実相ではないが、実相は全体としては把握できるものではない。こうした小さな断片の幻に焦点を合わせることで拡大され、見えるようになる。

 スタークはそこでいろいろ考えたことも記す。トルコ人について。大英帝国の思考法、システムについて。先達の旅行家たちについて。今自分が歩いている同じ場所をかつて通った人びとについて。人間と人間が生みだしてきたさまざまなもの全般について。そうした考えもまた、この世界、時空の泡の中でこそ生まれたものでもある。

 紀行を読む愉しみはそこにある。見慣れた風光から見慣れぬ世界を浮かびあがらせるのもいいが、見慣れぬ風光から、知っているはずの世界の新たな位相が立ち上がってくるのはもっといい。


 篠田は巻末の解題で英国旅行文学の中でも中近東を旅してその旅行記を書いた人たちを個性と作品の質の高いことでぬきんでているとする。その最上の書き手は18世紀末『アラビア砂漠 Arabia Deserta』を書いたチャールズ・ダウティということに評価は定まっていて、これに続くのがカートルード・ベル、T・E・ロレンス、そしてこのフレヤ・スタークが世代を代表する大物作家。さらにフィルビー、バイロン、セシガーと続く。

 もっともダウティはガートルード・ベル Gertrude Bell の『シリア縦断紀行 The Desert And The Sown』邦訳第1巻巻末の解説の筆者セアラ・グレアム=ブラウンに言わせれば「おそるべき記念碑趣味=モニュメンタリズム」に陥っているそうだ。

シリア縦断紀行〈1〉 (東洋文庫)
G.L. ベル
平凡社
1994-12-01



 ロレンスはもちろん「アラビアのロレンス」で、主著『知恵の七柱』は完全版の完訳も出た。上記グレアム=ブラウンは「とりとめのない自意識過剰の内省」が多いと言う。

完全版 知恵の七柱 1 (東洋文庫0777)
T.E.ロレンス
平凡社
2020-06-30



 フィルビーは Harry St John Bridger Philby (1885-1960) と思われる。二重スパイのキム・フィルビーの父親。サウディアラビアを建国し、英傑といわれたイブン・サウドの顧問。これもグレアム=ブラウンに言わせると「隠喩だらけの散漫な文章」だそうだ。

 篠田の文章も半世紀前のものではある。彼自身の見立てもその後変わったかもしれない。

 バイロンは Robert Byron (1905–1941) だろう。The Road To Oxiana, 1937 が有名。これについてはブルース・チャトウィンが「聖なる本。批評などできない」と述べているそうな。チャトウィンは中央アジアを4回旅していて、その間、この本を肌身離さず持ちあるいたから、あちこち濡れた跡があり、ほとんどばらばらになっていたという。
 英文学には紀行の太い伝統がある。チャトウィンはその伝統を豊かにした書き手の一人だろう。
 バイロンにはもう1冊、The Station, 1928 がある。ギリシャのアトス山の紀行。村上春樹が『雨天炎天』1990 にそこへの旅を書いた聖地。60年の時間差で、どれだけ変わり、あるいは変わらないか、読みくらべるのも一興。
 バイロンは第二次大戦中、西アフリカへ向かう乗船が魚雷攻撃を受けて沈没して亡くなる。
 セシガーは Wilfred Thesiger (1910-2003) 。『ベドウィンの道』が同じ『現代世界ノンフィクション全集』の7に収録。他に『湿原のアラブ人』が白水社から出ている。スタークと同様、この人も93歳の高齢を保った。アラビアの砂漠を探検すると長生きするとみえる。

湿原のアラブ人
ウィルフレッド セシジャー
白水社
2009-10-01



 問題はガートルード・ベル Gertrude Bell (1868-1926) である。スタークの先輩旅行家兼作家でもあり、スタークももちろん読んでいるし、その著作の中でも『シリア縦断紀行』と双璧と言われる Aramuth To Aramuth をこの旅にも携えてきている。こちらはシリアのアレッポからユーフラテスを下ってバグダードに至り、Uターンしてティグリスを上って最終的にはトルコのコンヤに至る、3,000キロの旅の紀行。

 ベルはしかし、旅行作家としてだけでなく、第一次大戦中から戦後にかけての英国の中東政策に絶大な貢献をしている。『ラルース』はかつてベルについて「ロレンスの女性版」と書いたそうだが、実相はロレンスがベルの男性版と言う方が近い。
 たとえば第一次大戦後、イラクという国を作ったのは、実質的にベルの仕事である。ロレンスが「発見」したファイサルをイラクの初代国王に据えたのはベルである。国境の策定も一人でやっている。他にできる人間がいなかった。
 ベルは1911年05月、ユーフラテス上流カルケミシュで考古学者としてのロレンスに会っている。ロレンスはベルの『シリア縦断紀行』を読んでいて、ファンだった。ベルはこの邂逅を告げる書簡で
「私の来るのを心待ちにしていたロレンスという若い人に会いました。彼もひとかどの旅行作家になることでしょう」
と書いている。と、 『シリア縦断紀行』の訳者・田隅恒生は「訳者後記」で書いている。

 ベルの伝記が2冊、ジャネット・ウォラックの『砂漠の女王:イラク建国の母ガートルード・ベルの生涯』と『シリア縦断紀行』とデビュー作『ペルシアの情景』の訳者・田隅恒生による 『荒野に立つ貴婦人:ガートルード・ベルの生涯と業績』がある。
 ということで、スタークの『暗殺教団の谷』と伝記『情熱のノマド』、ベルの3冊と伝記2冊、バイロンの2冊、セシガーまたはセシジャーの2冊は読まねばならない。宮崎市定の『西アジア遊記』も再読しよう。(ゆ)

08月15日・月
 ワシーリー・グロスマンの Stalingrad 着。1,000ページ超。

Stalingrad (English Edition)
Grossman, Vasily
NYRB Classics
2019-06-11



 序文と後記によると、これは For A Just Cause(むろんそういう意味のロシア語のタイトル)として1954年にソ連で初版が出た本の英訳。だが、この本は当時の検閲を通るため、大幅な削除がされている。後、二度、再刊され、最後の1956年版はフルシチョフによる「雪解け」期に出たため、削られたものがかなり復活している。

 モスクワのアーカイヴには手書き、タイプ、ゲラの形のテキストが9つある。このうち第三版がかなりきれいなタイプ原稿で、手書きの訂正が入っている。分量からしても、最も完全に近い。以後の版では第五版と第九版に新たな要素がある。

 この英訳版は1956年の刊本をベースに、プロットはそれに従いながら、第三版のタイプ原稿から追補した。ただし、そっくり全部ではない。この本と『人生と運命』は本来1本の作品として構想されていた。1956年版が終っているところから『人生と運命』が始まる。原稿第三版には『人生と運命』と1本とみた場合に、プロットに違背する部分がいくつかある。その部分を外した。

 本文の決定は訳者の一人 Robert Chandler とグロスマンの最新の伝記の著者の一人 Yury Bit-Yunan があたった。ロシア語の校訂版が存在しない現時点での最良のテキストを用意するよう努めた。

 ロバート・チャンドラーは序文で、本書刊行本の成立事情を解説している。この小説はもちろんグロスマン自身のスターリングラード体験が土台になっているが、執筆の動機としてはむしろ外からの、それもスターリン政権から暗黙のうちに示されたものだった。この独ソ戦はソ連にとってまず何よりもナポレオン戦争の再現だった。だから戦争遂行のため、『戦争と平和』が利用される。実際、スターリングラードでロシア軍の最も重要な指揮官も『戦争と平和』に頼った。ロディムツェフはこれを3回読んだ。チュイコフは作中の将軍たちのふるまいを己のふるまいの基準とした。
 そして戦後にあって、この勝利を永遠のものとするような小説作品、20世紀の『戦争と平和』を政権は手に入れようとする。グロスマンはトルストイに挑戦することに奮いたったのだ。

 グロスマン自身、戦争の全期間を通じて、読むことができたのは『戦争と平和』だけだった、と述懐している。これを二度読んだという。スターリングラードの戦場から娘にあてた手紙にも書く。
「爆撃。砲撃。地獄の轟音。本なんて読めたもんじゃない。『戦争と平和』以外の本は読めたもんじゃない」

 政権は自分に都合のよいヴァージョンを得ようとして、グロスマンに原稿を「改訂」させようとする。一方で、グロスマンはスターリン政権末期のユダヤ人弾圧の標的にもされる。For A Just Cause として本篇がまがりなりにも刊行されたのは、ひとえにスターリンが死んだからだ。

 こうなると、『戦争と平和』も読まねばならない。あれも初めの方で何度も挫折している。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月15日には1971年から1987年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1971 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。
 非常に良いショウだそうだ。
 デッドヘッドのすべてがバンドと一緒にツアーしていたわけではなく、地元に来ると見に行く、という人たちも当然いた。むしろ、その方が多かっただろう。
 ヴェニューはバークリー高校の敷地内にある。収容人員3,500弱。この時期、ビル・グレアムがフィルモアと並んでここを根城にコンサートを開いている。デッドの2週間前がロッド・スチュワート付きフェイセズ、デッドの翌週末がスティーヴン・スティルス。その週はさらにフランク・ザッパ、プロコル・ハルム、そして9月半ばにレッド・ツェッペリン。とポスターにはある。

2. 1981 Memorial Coliseum, Portland, OR
 土曜日。北西部3日間の中日。10ドル。開演7時半。
 充実したホットなショウの由。

3. 1987 Town Park, Telluride, CO
 土曜日。このヴェニュー2日連続の初日。20ドル。開演2時。Olatunji and the Drums of Passion 前座。KOTO FM で放送された。オラトゥンジのバンドは前座だけでなく、コンサートに先立って、メインストリートを太鼓を叩きながら練りあるいた。
 ここはジャズとブルーグラスのフェスティヴァルで有名なところだが、音楽を味わうにふさわしい環境の場所らしい。デッドの音楽は、たとえばキース・ジャレットのピアノ・ソロのように、演奏される場、場所を反映する。シスコとニューヨークでは、その音楽は同じだが違う。ここでもやはり違っていたようだ。こういうショウはその場にいて初めて全体像が把握できるのだろう。後で音だけ聴くのではやはり届かないところがある。
 一方で、すべての現場に居合わせるわけにもいかない。ソローが歩きまわった場所に今行っても、同じ光景は見られない。しかしソローが歩きまわったその記録を読んで疑似体験することはできる。(ゆ)

07月22日・金
 3ヶ月半ぶりの床屋。この爽快感はやめられない。夕方、散歩に出て、今年初めて蜩を聞く。

 夜、竹書房編集のMさんから連絡。今月末「オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』(藤井光訳)刊行記念オンライントークイベント」というオンライン・イベントがあるそうな。

 SFセミナーでもバトラー関連企画があるそうな。もう間に合わんか。
「オクテイヴィア・バトラーが開いた扉」出演:小谷真理 橋本輝幸

 わが国でもじわじわ来てますなあ。あたしが訳した The Parable 二部作は今秋刊行でごんす。皆さま、よしなに。

 それにしても、バトラーさん、出身高校にまでその名前がつけられる今の状況を知れば、墓の下で恥ずかしさに身を縮こませてるんじゃないか。こんなはずではなかったのに、と。なにせ、「血を分けた子ども」がネビュラを獲ったとき、こういうことにならないようにと思ってやってきたのに、と言ったくらいだからねえ。

 とはいえ、彼女の場合、黒人で女性という二重のハンデを筆1本じゃないペン1本だけで克服したわけだから、尊敬されるのも無理はない。それも、今と違ってマイノリティへの差別がまだあたりまえの時代、環境においてだし。まあ、とにかく、あたしらとしてはまずは作品を読むことだな。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月22日には1967年から1990年まで4本のショウをしている。公式リリースは2本。

1. 1967 Continental Ballroom, Santa Clara, CA
 土曜日。2.50ドル。このヴェニュー2日連続の2日目。共演サンズ・オヴ・シャンプリン、ザ・フィーニックス、コングレス・オヴ・ワンダーズ。セット・リスト不明。これを見た人の証言は2日間のどちらか不明。

2. 1972 Paramount Northwest Theatre, Seattle, WA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。
 第一部3曲目〈You Win Again〉5曲目〈Bird Song〉11曲目〈Playing In The Band〉、第二部クロージングの3曲〈Morning Dew〉〈Uncle John's Band〉〈One More Saturday Night〉の計6曲が《Download Series, Vol. 10》でリリースされた。
 どれもすばらしい演奏。〈Bird Song〉と〈Playing In The Band〉は成長途中で、中間のジャムがどんどん面白くなっている時期。各々でのジャムのやり方を開発してゆく過程が見える。〈Playing In The Band〉の冒頭、ウィアがドナ・ジーン・ガチョーと紹介する。ドナの参加はまだこれだけ。
 〈Morning Dew〉はこの2曲よりは完成に近づいている。フォーマットはほぼ固まっていて、あとは個々の要素をより深めてゆく。

3. 1984 Ventura County Fairgrounds, Ventura, CA
 日曜日。開演2時。このヴェニュー2日連続の2日目。
 最高のショウの1本の由。

4. 1990 World Music Theatre, Tinley Park, IL
 日曜日。開演7時。このヴェニュー3日連続のランの中日。ティンリー・パークはシカゴ南郊。
 第二部2曲目〈Hey Pocky Way〉の動画が《All The Years Combine Bonus Disc》でリリースされた。
 第一部6曲目〈When I Paint My Masterpiece〉が始まって間もなく、一瞬、電源が切れて、沈黙が支配した。
 その後の第一部クロージングへの3曲がすばらしかったそうだ。(ゆ)

05月18日・水
 急にインターステイトの歴史に興味が湧き、Wikipedia の記事から本を1冊注文。同年にもう1冊あるが、そちらは BookFinder でも見つからず。注文したのは、
 


 もう1冊は
Hanlon, Martin D. (1997). You Can Get There from Here: How the Interstate Highways Transformed America. New York: Basingstoke. ISBN 978-0-312-12909-5
 アマゾンでは2006-11-30に St. Martin's Press から出たことになっている。在庫無し。

 Wikipedia によれば、アメリカのインターステイト・システムは1956年の法律で建設が開始され、1992年に完成宣言が出ている。もっとも、その前から道路建設はシステム化されているし、その後も拡張は続いている。'interstate' という名称そのものがまず面白い。'international' と似たような感覚ではないか。

 アメリカにいた時にその存在を知り、毎日利用もして、インターステイトは面白いと思っていた。ジェリィ・ガルシアの両親がパロ・アルトに定着したのはインターステイト・システムによって起きた人口移動の一環だ、とどこかで読んで興味は増していた。それにデッドヘッドたちがショウへ通うにもインターステイトは絶大な役割を果している。バンドは飛行機で移動するのだが、聴衆はなぜか飛行機ではなく、車で移動した。若く、飛行機は高すぎたのか。トラヴェル・ヘッドたちも車で移動していた。インターステイトがなければ、グレイトフル・デッドは生きていけなかった。

 今回興味が湧いたのはサンフランシスコとロサンゼルスの間の移動に、おそらくバンドは早い時期から飛行機を使っていただろうと気がついたからだ。飛行機なら1、2時間。5号線、Interstate 5 を飛ばしても6〜7時間はかかる。その5号線はインターステイトの西端だ。

 インターステイトはわが国のいわゆる高速道路とはまったく異なるシステムだ。ヨーロッパの高速道路とも違うと、イングランドをちょこっと走っただけだが、思う。アメリカでは飛行機による移動も、商用自家用を問わずごく普通で、交通機関としてはたぶん列車よりも今は大きいだろうけれど、今のアメリカを造ったのはやはりインターステイトだ。19世紀が鉄道の時代とすれば、20世紀は自動車と道路の時代で、インターステイトはその最先端だ。どういう道路を何のためにどうやって造ったか、というのは歴史においてかなり大事な話だから、まっとうな研究もたぶんあるだろうけれど、まだ遭遇していない。ローマの街道は有名だけれど、道路はそれだけではないはずだ。上記の本がとっかかりになるか。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月18日には1967年から1977年まで5本のショウをしている。公式リリースは2本、うち完全版1本。

1. 1967 Awalt High School, Mountain View, CA
 火曜日。3度高校でやっている、そのうちの1回。セット・リスト不明。音はひどいが録音もあるそうな。
 マウンテン・ヴューはサンフランシスコ湾南端の街。高校は今は閉鎖されたようだ。

2. 1968 Santa Clara County Fairgrounds, San Jose, CA
 土曜日。前日とこの日の夜はロサンゼルスの同じハコでショウをしている。サンノゼはサンフランシスコの近くで、こちらは昼のショウだが、そんな蜻蛉返りをしたのだろうか。40分弱のテープが残っているので、したらしい。もちろん出番が終ったらすぐ飛行機にとび乗れば、1〜2時間で着いてしまう。場合によってはチャーターも不可能ではない。飛行機をチャーターするのはアメリカでは簡単で、わが国のハイヤーか貸切バス感覚でできる。デッドの場合、セスナというわけにはいかないだろうが、中型機を持ってやっている独立の航空会社はいくらでもある。中型機が離着陸できる飛行場はもうそこら中にある。この会場の東1、2キロのところにも Reid-Hillview Airport がある。ロサンゼルスの方は会場の西12キロに Santa Monica Municipal Airport がある。つまり、やろうと思えばそう難しくはない。
 DeadBase XI では "Northern California Folk-Rock Festival" なるイベントで共演は
The Doors
Eric Burdon & The Animals
Big Brother & The Holding Company
The Yardbirds
Electric Flag
Jefferson Airplane
Kaleidoscope
Country Joe & The Fish
Taj Mahal
という、この時期のカリフォルニアではもうおなじみの面々。テープは2本あり、1本は客席で手に持ったマイク1本のモノ録音。もう1本はステージに置かれたマイクで、ヨウマ・カウコネンによるそうだ。

3. 1968 Shrine Exhibition Hall, Los Angeles, CA
 こちらは前日に続く2日目。これもヨウマ・カウコネンがステージに置いたマイクによる録音が残っているそうなので、同行したのだろう。ただ、セット・リストは不明。

4. 1972 Kongressaal, Deutsches Museum, Munich, West Germany
 木曜日。12.30マルク。開演8時。ヨーロッパ・ツアー18本目。ドイツ最後のショウ。これで大陸を打ち上げ、この後はロンドンでの4日連続のショウでツアーを締めくくる。
 《Europe ’72: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。
 この日はガルシアのギターの調子が、悪くはないが格別良くもなく、むしろ歌で勝負、というところがある。アンコールまできてやった〈Sing Me Back Home〉の出来がすばらしく、この歌のこれまでのベスト・ヴァージョン。その間奏のギターが飛びぬけている。この日のギターでは第一部終盤の〈Playing In The Band〉と並ぶ。それでようやく殻が破れたか、アンコール2曲目の〈One More Saturday Night〉間奏のギターもすばらしい。
 〈Sing Me Back Home〉は初めはデッドがやるべき曲とも聞えなかったものが、回を重ねるごとに良くなり、ここに至って、最高の曲に思えるものになった。この曲があまり長く続かなかったのは、あるいはあまりに完成してしまって、それ以上展開する方向が見つからなかったからかもしれない。
 〈Playing In The Band〉も順調に育っていて、この日の演奏はこのツアーのここまでのベスト。
 〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉の成長はもう少しゆっくりしているが、この日の演奏はやはりすばらしい。
 この日の第二部のジャム曲は〈Dark Star〉で、歌が出るまでの集団即興は楽しい。その後の〈Morning Dew〉のガルシアの歌唱がいい。
 CD で再び3時間を超え、調子はまったく崩れず、ロンドンの4日間に突入する。
270 Fred Heutte

5. 1977 Fox Theatre, Atlanta, GA
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。
 第一部5曲目〈Friend Of The Devil〉が2013年の、7曲目〈It Must Have Been The Roses〉が2014年の、第二部クローザー前の〈Stella Blue〉が2020年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。いずれ全体のリリースを期待。(ゆ)

05月16日・月
 NYRB のニュースレターを見て Ross Feld, Guston In Time をアマゾンで予約。今月24日発売。
 
Guston in Time (New York Review Books Classics)
Feld, Ross
NYRB Classics
2022-05-24


 Guston は Philip Guston (1913-80) で、1970年代以降の晩年の絵画が後の画家たちに大きな影響を与えた。ニュースレターに掲載された絵やボストン美術館で現在開かれている Philip Guston Now という回顧展のサイトのギャラリーを見ても、実に面白いと思う。こういう人がいるのねえ。



 しかし発表当時は時の美術界からは総スカンを食い、ほとんど唯一評価したのがまだ若い Ross Feld だった。2人の間に篤い友情が結ばれ、この本はフェルドが残した追憶の書。回顧展の図録は欲しい。ボストン美術館は通販で売っているがペーパーバック40ドルに送料52ドル。やはりためらう。昔はこういう本はイエナあたりにあったりしたのだが、今はどこか、集めているところはあるのだろうか。海外の展覧会の図録を集めて売っている本屋はありそうだが。
それにしても、この人もカナダだ。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月16日には1969年から1993年まで7本のショウをしている。公式リリースは3本、うち完全版2本。

1. 1969 Campolindo High School, Moraga, CA
 金曜日。1時間弱のテープが残っている。大学では多数ショウをしているデッドだが、高校は珍しい。1966、1967、そしてこの時と3校が記録にある。
 モラガはオークランドの東10キロほどのバークリー丘陵の中の街。風光明媚なところらしい。この高校は公立校だが有名らしく、2019年の U.S. News & World Reports のランキングでカリフォルニアで30位、全国で239位。スポーツが盛ん。オリンピックやプロで活躍するアスリートを輩出している。球技、陸上、水上、格闘系なんでもござれだが、クロスカントリーでは男女ともに州トップ・クラス。

2. 1970 Temple University, Philadelphia, PA
 土曜日。6.50ドル。開演3時。テンプル野外フェスティヴァルと題されたラジオ局 WFIL 主催のイベントらしい。ジミ・ヘンドリックス・エクスペリアンスがヘッドライナー。デッド、スティーヴ・ミラー・ブルース・バンド、カクタス、MC5、Jam Factory の名がポスターにある。マンハッタン・トランスファーも出たという話もある。
 デッドのステージの録音として30分弱のテープが残っている。そこでは最後にロード・マネージャーのサム・カトラーが、今録音したテープを買うからテープ・デッキのスイッチを切るように言っているそうだ。実際、録音はそこまで。

3. 1972 Theatre Hall, Luxembourg
 火曜日。ヨーロッパ・ツアー17本目。《Europe ’72: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。なおこれにはサウンド・チェックの2曲も収録された。
 ラジオ・ルクセンブルクは1960年代から国境を超えた汎ヨーロッパ的「海賊版放送局」として活動していた。このショウはそこで放送されるためのもので、放送局内の小さな方のスペースで行われた。定員は500。タダ券が地元民と、5月初旬のパリでのショウの後、ファンに配られた。番組は通常ヨーロッパではいくつかの周波数とフォーマットで放送され、短波で全世界に放送されていた。ためにレシュはこのショウの中でカリフォルニアのファンに呼びかけている。もっとも夜遅くなるにつれて受信状態が悪くなるのが常で、デッドの放送開始は午後11時だったため、第一部は明瞭だが、第二部はだんだん音が小さくなり、ノイズにまぎれていった。
 ショウの時間枠は3時間で、ために「ビート・クラブ」に次いで短かく、CDで2時間半強。コンパクトにまとまっている。短かい要因の一つはピグペンが長い曲をやっていないためで、本人の体力の問題もあったのだろう。クローザーの〈Not Fade Away〉では、戻って2度目の演奏で、従来はウィアとピグペンが歌いかわしていたのが、この日以降、ウィアが単独で歌う形になる。
 もっとも演っている3曲〈Mr. Charlie〉〈Chinatown Shuffle〉〈It Hurts Me Too〉はいずれも力唱だし、オルガンはしっかり弾いている。ちなみに〈Mr. Charlie〉はこのツアー22本のすべてで演奏された唯一の曲。
 演奏はこのツアーらしく、どの曲もきっちりした水準の高いもので、コンパクトにしようという意識があるのか、〈The Other One〉も短かめで、終始ビートがあって面白い。ハイライトは〈Sing Me Back Home〉で、ガルシアが歌のコツを摑み、これまでのベスト。
 ライナーで〈The Promised Land〉がこのショウでデビューと書いているのはデヴィッド・ガンスの勘違い。この曲は1971-05-29にウィンターランドでデビューしている。
 ルクセンブルクはアメリカ人には異様なところと映ったらしい。元来はフランス語圏だが、ルクセンブルクは「国策」としてルクセンブルク語をフランス語から独立させようとしている。ラジオ・ルクセンブルクの独自性もこの国がヨーロッパの中で他のどこにも属さないようにしているところから生まれていたのだろう。
 次は中1日置いて西ドイツにもどってミュンヘン。

4. 1978 Uptown Theatre, Chicago, IL
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。とりわけ第二部が良いショウの由。

5. 1980 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY
 金曜日。11.50ドル。開演8時。このヴェニュー3日連続のランの楽日。03月30日からの春のツアーの千秋楽。この後は2週間休んだだけで、05月29日から夏のツアーを始める。
 第一部から5曲、第二部オープナーの2曲が《Go To Nassau》でリリースされた。

6. 1981 Cornell University, Ithaca, NY
 土曜日。9ドル。開演8時。コーネル大学3度めで最後のショウ。
 《30 Trips Around The Sun》の1本として全体がリリースされた。

7. 1993 Sam Boyd Silver Bowl, Las Vegas, NV
 日曜日。開演2時。このヴェニュー3日連続のランの楽日。スティング前座。
 飛び抜けて良いショウの由。第一部は6曲で短かかったが、第二部は新鮮な組合せが続いた。
 スティングもすばらしく、3日間で初めてアンコールをやった。デッドは全員右袖に出てきて、拍手喝采した。(ゆ)

02月08日・火

 公民館に往復して、図書館から借りた本をピックアップ。イアン・カーショーのヒトラー伝の上巻と最新刊の『ナチス・ドイツの終焉』。浩瀚なヒトラー伝でも決着がつかなかった疑問、ナチス・ドイツはなぜ最後まで抵抗を続け、全ドイツを道連れにできたのか、という疑問に挑戦したもの。どちらも部厚いが、どちらも原注・文献が2割はある。ヒトラー伝は二段組。『ナチス・ドイツの終焉』の訳者は1934年、ナチスが政権をとった翌年の生まれだから87歳。それでこの仕事をしたというのは、本当に自分でやったのなら偉いもんだ。冒頭を読むかぎりでは、訳文にひっかかるところは無い。

 もともとはワシーリィ・グロスマンを読もうとして、その準備のためにアンソニー・ビーヴァーのスターリングラード攻防戦を読んだら、そこから滅亡までのナチスの歴史にハマってしまった。肝心のグロスマンはそっちのけになる。まあ、いずれ戻れるだろう。

ナチ・ドイツの終焉 1944-45
イアン・カーショー
白水社
2021-11-26



##本日のグレイトフル・デッド

 0208日には1970年と1986年にショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA

 このヴェニュー、4日連続のランの最終日。3ドル。開演7時。タジ・マハル共演。

 オープナー〈Smokestack Lightnin’〉と5曲目〈Sittin' On Top Of The World〉が《The Golden Road》所収の《History Of The Grateful Dead, Vol. 1 (Bear's Choice)》でリリースされた。オリジナルの《History Of The Grateful Dead, Vol. 1》は19700213日と14日のフィルモア・イーストでのショウの録音からの抜粋だが、2001年に《The Golden Road》のボックス・セットに収録された際、4曲が加えられた。その4曲のうちの2曲がこの日の録音。

 〈Smokestack Lightnin’〉はこの日の西での演奏と13日の東での演奏を聴き比べることができる。ピグペンがリード・ヴォーカルのブルーズ・ナンバー。ハウリン・ウルフが最も有名だろう。ジョン・リー・フッカー、ヤードバーズ、アニマルズも録音している。19670318日サンフランシスコで初演。19720325日ニューヨークがピグペンでの最後。19830409日に復活し、19941018日マディソン・スクエア・ガーデンが最後。計53回演奏。

 ブルーズ・ロック・バンドとしてのデッドの実力がわかる。もっともガルシアのギターはブルーズ・ギターではない。後にはばりばりのブルーズ・ギターも弾くが、この時期は典型的なブルーズのフレーズはほとんど弾かない。ピグペンのヴォーカルも典型的なブルーズ歌唱ではない。それでもブルーズの感覚は濃厚だ。タジ・マハルも典型的なブルーズの人ではないが、この演奏を当時どう聞いたか、何か記録があれば面白いだろう。タジ・マハルは前年に傑作《Giant Step/De Ole Folks At Home》を発表している。少なくともガルシアはこれを聴いていたはずだ。

 〈Sittin' On Top Of The World〉はブルーズというよりはより広いアメリカーナの共有財産として、オールドタイム、ヒルビリー、ブルーズ、ウェスタン・スイング、ブルーグラスなどの人たちに演奏され、1930年代から様々な録音がある。ガルシアのアイドルの一人ビル・モンローもブルーグラス・ボーイズで録音している。ガルシアのデッド以前からのレパートリィの1曲で、1962年の Hart Valley Drifters の録音がリリースされている。デッドとしては19660312日ロサンゼルスで初演。1972年春のヨーロッパ・ツアーまで演奏され、その後、跳んで19890702日、マサチューセッツでの演奏が最後。計25回演奏。なお〈Sittin' on Top of the World〉がデッドの録音での表記だが、'Sitting' と略さない形の表記も若干ある。デッド以外の録音では略さない方が一般的のようだ。


2. 1986 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 16ドル。開演8時。このヴェニュー5本連続のランの初日。この年最初のショウ。春節記念。かなり良いショウの由。(ゆ)


 グレイトフル・デッドの今年のボックス・セットが発表になりました。セント・ルイスでの1971年12月から1973年10月までの7本のショウの完全版。《Listen To The River》のタイトルは〈Broken-down Palace〉の歌詞から。川はデッドの歌に繰返し出てくるモチーフです。13,000セット限定。
 
1971-12-09, Fox Theatre, St. Louis, MO
1971-12-10, Fox Theatre, St. Louis, MO
1972-10-17, Fox Theatre, St. Louis, MO
1972-10-18, Fox Theatre, St. Louis, MO
1972-10-19, Fox Theatre, St. Louis, MO
1973-10-29, Kiel Auditorium, St. Louis, MO
1973-10-30, Kiel Auditorium, St. Louis, MO

 録音は1971年が  Rex Jackson, 1972年が Owsley "Bear" Stanley, 1973年が Kidd Candelario。いずれも録音の名手で、これまでの実績からしても、音質は良いはず。

 1971年は先日50周年記念盤が発売になった Skull & Roses のバンドにキース・ガチョーが入った形。1972年ではピグペンが抜けています。

 David Lemiuex の seaside chat によれば、ライナーの一つを72年、73年のショウのプロモーターを勤めた人物が書いているそうで、こういう立場の人がライナーを書くのは珍しい。写真などもたくさん入っているそうで、楽しみです。これがあるから物理CDを買うのをやめられない。もう一つ、デッドのマネージャーだった Sam Cutler も書いているそうで、これも面白いでしょう。メインのライナーなおなじみニコラス・メリウェザー。

 日本への送料は15.99で合計215.97USD です。Dead.net のこの送料を見ても、他の出版社などの送料がなんであんなに高いのか、わからん。扱うヴォリュームの問題なのか。そりゃ、こちらは天下のワーナー・ブラザーズですけど。

 今回はCDのセットを注文すると1971-12-10のショウからデジタル・ダウンロードが3曲付いてきます。Sugaree、Mr. Charlie、Playing in the Band。このショウのみ、独立でCDが出ます。このショウは FM放送されて、有名なブートがあるのでその対策かな。また1972-10-18のショウの一部が Dead.net 限定でアナログ2枚組で出ます。

 同じ場所での3年にわたるショウをまとめるのは一昨年の Giants Stadium Box を踏襲してます。この形だと、バンドの音楽の変化がよくわかります。今回はとりわけバンドが急速に変化していた時期で、いろいろと楽しみ。Giants Stadium は売り切れるまで時間がかかってましたけど、今回はあっという間でしょう。

 St. Louis でのショウは20本。ミズーリ州では32回ショウをしているので、3分の2はセント・ルイスでやっています。

1968-05-24, National Guard Armory
1968-05-25, National Guard Armory
1969-02-06, Kiel Auditorium
1969-04-17, Washington University
1970-02-02, Fox Theatre
1970-10-24, Kiel Opera House
1971-03-17, Fox Theatre
1971-03-18, Fox Theatre
1971-12-09, Fox Theatre
1971-12-10, Fox Theatre
1972-10-17, Fox Theatre
1972-10-18, Fox Theatre
1972-10-19, Fox Theatre
1973-10-29, Kiel Auditorium
1973-10-30, Kiel Auditorium
1977-05-15, St. Louis Arena
1979-02-11, Kiel Auditorium
1979-12-09, Kiel Auditorium
1981-07-08, Kiel Auditorium
1982-08-04, Kiel Auditorium

 ショウ完全版の公式リリースはこれまでに4本。
1969-04-17, Washington University, St. Louis, MO > Download Series 12
1970-02-02, Fox Theatre, St. Louis, MO > Dave's Picks, Vol. 06
1971-03-18, Fox Theatre, St. Louis, MO > 30 Trips Around The Sun
1977-05-15, St. Louis Arena, St. Louis, MO > May 1977

 Washington University は1853年設立の私立総合大学で、2018年時点で学生数15,000(学部、大学院半々)、教員数3,800余。ここに関係したノーベル賞受賞者は25人の由。スタンフォードとかコーネルなどと同じレベルでしょう。

 セント・ルイスの Fox Theatre は1929年に映画館としてオープンし、1978年に一度閉鎖。改装されて1982年に再開。収容人員は4,500。デッドはこれくらいのサイズの会場が一番好きだったようです。なお、デッドが演奏した Fox Theatre はもう一つアトランタのものがあります。サイズはほぼ同じ。あちらでは1977年から85年にかけて計9回演奏。

 Kiel Auditorium は1934年にオープンし、1991年に閉鎖された屋内アリーナで、収容人員は9,500。DeadBase 50 よると10,500。デッド以外にも様々なコンサートの会場となりましたが、最も有名なのはプロレス会場としてらしい。

 Kiel Opera House はオーディトリアムのステージと背中合わせにステージが作られている施設で、こちらの収容人員は 3,100、リノベーションされて現役。オーディトリアムとの仕切りを取り払って、広くも使えたそうな。

 St. Louis Arena は1929年オープン、1994年に閉鎖された多目的屋内アリーナで、収容人員はこの当時はアイス・ホッケーで18,000。コンサートではもう少し少なかったでしょう。

 National Guard Armory というのは今は使われていない建物らしく、ここに写真があります。

 この名前の建物はもちろん全米各地にあるわけですが、デッドが演奏したのはこのセント・ルイスのものだけ、それも1968年5月の2回だけです。このショウを見てデッドに入れこみ、デッドのショウを見るためにセント・ルイスからサンフランシスコ郊外に引越した人物のコメントが 30 Trips Around The Sun 付録の本に収録されています。2回とも明確なセット・リストは残っていませんが、このコメントによると、バンド・メンバーの一人、おそらくピグペンではないかと思われますが、最後の〈Morning Dew〉でマイクをステージにあった直径6フィートの巨大なゴングに叩きつけ、あるいはマイクでさすって異様な音を出し、バンドもこれに合わせて、圧倒的なクライマックスになったそうです。演奏を終ったバンド・メンバーが、今のはいったい何が起きたんだ、という顔をしているのをみて、こいつら、とことん見てやると決意した由。

 それにしても半世紀前の録音がつい昨日録音されたもののように聴けるのはテクノロジーの恩恵ですなあ。これらのショウが行われていた当時、半世紀前の録音といえばSP盤しかなかったわけで、レコードを手に入れるのも、それを再生するのも、えらく苦労しなければなりませんでした。(ゆ)

5月6日・木

 ドーナルの新バンド Atlantic Arc の新譜のクラウドファンディングは成功したと通知。出だしがのんびりで大丈夫かと心配したが、あっちこっちでニュースになって集ったらしい。

 ジェリィ・ガルシア公式サイトから GarciaLive, Vol. 16: 1991-11-15, Madison Square Garden, NY, NY の案内。ジャケット・デザイン一新。モダンになった。今度のTシャツもまずまずかっこいい。

 散歩の帰りに公民館に寄り、本2冊ピックアップ。『ローベルト・ヴァルザー作品集』の第1巻と第5巻。

 「少なくともヴァルザーの主要作品と目されてきたものは、ほぼすべて日本語に訳出されたことになるだろう」第5巻, 359pp.

 しかしヴァルザーの「主要作品」は3本の長篇小説ではあるまい。「現在のズーアカンプ版全集で二十巻中の十五巻を占め、さらに遺稿集六巻にも所収されている計千数百篇にもなる散文小品」(第1巻, 373pp.)であるはずだ。この作品集の最初の3巻は長篇のみ。散文小品が入っているのは4、5の2巻で、第4巻は37篇、第5巻は「フェリクス場面集」を24篇と数えると41。計78篇。1割どころか5%ぐらいか。ここに収められたものはもちろん精選されたものであるだろうが、ヴァルザーの場合、「ベスト」とか「ワースト」とかは無意味だ。もう3冊ぐらいは散文小品だけの巻、それにミクログラムばかり集めた1巻が欲しい。『詩人の生』と『絵画の前で』はどうか。昔読んだ飯吉光夫編訳の『ヴァルザーの小さな世界』が出てこないので、『ヴァルザーの詩と小品』としてみすずから出なおしたものも図書館で頼んでみよう。重複は少ない。みすず版はいくらか増補されてもいるようだ。

ローベルト・ヴァルザー作品集5
ローベルト ヴァルザー
鳥影社
2015-10-30

 

 折りよく、とりあえず注文してみた New Directions + Christine Burgin による Microscripts が届く。編訳は Susan Bernofsky。全部で526枚遺されたミクログラムのうち29枚を選び、現物の表裏をカラーの実物大で複製し、その英訳を添える。2010年にハードカヴァーで出たものに4枚追加した2012年のペーパーバック。1枚に複数の話が書かれているものもあるらしい。巻頭に訳者による解説、巻末にベンヤミンのヴァルザー論と表紙の絵を描いている Maira Kalman によるイラスト・エッセイを収める。

Microscripts
Walser, Robert
New Directions
2012-11-21



 カルマンは雪の上に倒れているヴァルザーの写真を見て、ヴァルザーに惚れこんでしまったのだそうだ。ヴァルザーは1956年のクリスマスの日に日課の散歩に出て、途中で心臓発作を起こし、倒れて死んでいるのが発見された。享年78歳。散歩は『作品集』第4巻収録の傑作「散歩」はじめ、いくつもの文章に書かれているように、ヴァルザーにとっては書くことと並んで、晩年書かなくなってからは、何よりも大事な活動だった。かれは散歩するために生きていた。その途次に斃れたのはだからいわば「舞台の上」で、「現役」のまま死んだことになる。カルマンの言うとおり、そんなに悪い死に方ではない。むしろ、本人としては本望ではなかったか。あたしなどもこういう死に方をしたいものだ。

 というわけで、ヴァルザー熱は当分冷めそうにない。(ゆ)

 村井さんの新著はジャズと関係が深い作家についての文章、ジャズ関連書の短かい書評、ジャズについての本についての解説を集めたもの。基本的に他に書いたものを集めているが、4分の1ほどは書下しだし、この本の企画が決まってから書いたものもあるそうだ。

 その本のローンチ・イベントはこの本の中心をなす第一部、作家とジャズの関連を探った文章の中からスコット・フィッツジェラルドとジャック・ケルアックを選び、それぞれとジャズのつながりを映像と音で確認するものだった。作品は当時ベストセラーとなり、作家も時代の寵児となるが、そのために比較的若くして死んだことと、時代を超えて読みつがれ、後世への影響も大きいことは共通する。

 前半のフィッツジェラルドは「ジャズ・エイジ」のフレーズを広めた張本人であり、また20世紀前半アメリカを代表する小説家でもある。ここでの眼目は「ジャズ」が今のわれわれにとってこの言葉が意味するものよりも遙かに広い意味をフィッツジェラルドの時代には持っていた、ということ。それはまずセックスの表現から始まり、セックスの比喩としての踊りの言葉になり、それからその踊りのための音楽をさすようになった。「ジャズ」とは音楽のジャンルないしスタイルだけではなく、『グレイト・ギャツビー』に描かれた派手で野放図なパーティーを描写する言葉だった。

 ということで1974年の映画『グレイト・ギャツビー』から、ギャツビーが開くパーティーのシーンを見る。この映画の音楽監督はシナトラ最盛期の編曲者でもあり、音楽の時代考証はきっちりやっている由。当時最も人気のあったポール・ホワイトマン楽団の音楽をもとにしているそうで、パーティーでは男女、ときには女性のカップルがこれで踊りまくっている。男性はタキシードに蝶ネクタイ、女性はそれぞれに工夫を凝らした派手な衣裳。鳥の羽根を頭につけたりしている。膝上の丈で、踊ると下着が見える服もある。楽隊は画面には出てこない。

 ポール・ホワイトマン楽団はガーシュウィンの〈ラプソディ・イン・ブルー〉を世界初演、初録音していて、それも聴く。リード楽器はクラリネット。ジャズというよりクラシックの演奏だ。作曲者の意識としても、ジャズというよりアメリカ流クラシックのつもりだったのではないかと思われてくる。

 同じ楽団はパーティーのお開きにあたって甘いワルツも演奏し、これも当時ヒットしている。これはもうどこからどう見てもジャズではない。しかし、そう思うのは現代からふり返っているわれわれの勝手な思いこみであり、フィッツジェラルドにとっては、そしてミュージシャンたちにとっては同じ範疇のものだった。そのことを認識することは、今フィッツジェラルドを読むにあたって、そしてポール・ホワイトマン楽団を聴くにあたって重要だろう。ジャズにはわれわれの「ねばならない」にしたがう義理も義務も無い。一方でそのことを誤読し、超訳することも、現代のわれわれにとって意味がないことでもない。ただし、自分が誤読し、超訳していることをきちんと踏まえていれば、ではある。

 ポール・ホワイトマン楽団に恐れをなしたのか、客の半分ほどが帰った休憩後の後半のケルアックでも映画『路上』からパーティーのシーンを見る。1948年から49年への年越しパーティーだが、服装がより今風になり、かかっている音楽がビ・バップになっている他は、やっていることは四半世紀前とまったく同じ。ビ・バップは踊れないと文句を言われたというが、皆さん、平気でばりばり踊っている。セックスの代用または前段階であることも変わらない。

 ケルアックはジャズ・エイジから大恐慌と第二次世界大戦を経たビート・ジェネレーションに属するとされるが、こうして見ると、現代に通じる文化の誕生を体現している。フィッツジェラルドは断絶の向こう側の世界に生き、その時代を描いた。文学の上から言えば、むしろ19世紀の伝統に棹さし、ジョイスやプルーストよりはヘンリー・ジェイムズにつながる。つまり基本的にフィッツジェラルドは風俗作家だ。文学的な革命よりも、コンヴェンショナルな形の中でベストを尽くそうとする。

 ケルアックの革命はジョイスやプルーストほど意識的でなかった。アメリカで初めて可能になった、無意識の革命であり、ジャズや映画やサイエンス・フィクションと同列だ。『路上』の文章はジャズだ。ケルアックは言葉でジャズを演っている。その軌跡、録音が『路上』の形になっている。だから厳密にはあれは散文ではない。韻文でもなく、その中間のどこか、あるいは散文と韻文を含む平面から垂直に離れたどこかにある。散文として翻訳されると、どこかずれていると感じるのはそのためだ。

 ケルアックがパーカーやデクスター・ゴードンや、「クールにもコマーシャルにもまだ向かっていない」ジョージ・シアリングに共感したのも、だから無理はない。サイエンス・フィクションも同じ時期にジョン・W・キャンベルによる革命が進行中だったが、そこにジャズにつながるものは見えない。ケルアックとジャズのつながりは、時間的なものよりも空間的なものにみえる。キャンベル革命の現場はマンハタンの Astounding Science Fiction 編集部だったが、それはジャズ・クラブのような現実の空間よりも、文学世界というヴァーチャル空間に存在していた。

 サン・ラのような例外はあるとはいえ、どうやらサイエンス・フィクションと親近性がある音楽はジャズよりもロックである。サイエンス・フィクションが即興性よりも組み立てる傾向が強いこともあるかもしれない。プログレとは限らない。ジェリィ・ガルシアは熱狂的なSFマニアだったし、初期のデッドはスタージョンの『人間以上』をバンドのモデルの一つとしていた。デッドの即興はジャズのような個人の噴出ではなく、集団が組み立ててゆく。決してガルシアのギターをバンドが支えているものではない。

 言い換えれば村上春樹にサイエンス・フィクションは書けない。サイエンス・フィクションのように見えても、見えるだけで、本質的にサイエンス・フィクションでは無い。もっとも村井さんの描くところの村上の文学は、村上本人のフィッツジェラルドへの傾倒とは裏腹にフォークナーにつながるように見える。ここでフォークナーを論じる準備はないが、ケルアックが無意識にやっていたことを、フォークナーはより意識的にやっていた、とも思える。

 ケルアックが本当にやりたかったのは、最後に紹介された即興演奏とタメをはる俳句を即興で放出することではなかったか。英語による俳句は英詩の伝統からははずれていて、韻文とは言えない。むろん散文でもない。『路上』は例外的に長大な俳句とみるべきかもしれない。あるいは連句か。ケルアック個人が吐き出したものよりも、ニール・キャサディや「メリールゥ」と巻いた歌仙なのではないか。その後ケルアックが『路上』に匹敵するものが書けなかったのも、連句をつけてくれる相手に恵まれなかったせいではないか。ズート・シムズやアル・コーンとの共演も連句のつもりだったのではないか。

 そうしてみると、本でとりあげられている村上春樹と和田誠の『ポートレイト・イン・ジャズ』は連句の一種と言えないか。

 ケルアックでもう一つ、『路上』の映画のスリム・ゲイラードのシーンがすごい。本人ではもちろんなく、そのそっくりさんだそうだが、恐しいほどの芸達者で、これだけできればゲイラードの物真似でなくても、オリジナルとして十分通用するではないかと思われる。こういう芸人が、何人もいるとも思えない。そして「ハナモゲラ語」の祖先でもあるゲイラードの芸は、ヒップホップの遠い祖先とも言えそうだ。このあたりと Gil Scott-Heron との関連も気になる。スコット・ヘロンは村上春樹、佐藤泰志と同年でもある。

 本の半分を占める第一部で取り上げられた人物から今回フィッツジェラルドとケルアックを選んだのは、この2人だけがアメリカ人だからだろうか。だとすれば、他の人たちについても、いーぐるでのイベントをしていただきたいものだ。Spotify のプレイリストはやはり味気ない。村井さんとこの人たちとの連句を体験したい。(ゆ)

 ヴァシーリー・グロスマンを読もうとして、待て待て、その前にスターリングラード攻防戦について基本的なところを押えるべし。とて、Anthony Beevor の Stalingrad, 1998 を知る。邦訳もある。軍隊用語、組織名は手に負えるものではないから、邦訳に如くはなしと手にとってみると、うん、なんだ、これは。どうも、うまくない。解説に、原書は readability で評価が高いとあるが、邦訳は読みやすいとはとても言えない。ごつごつとひっかかる。アマゾンの読者評でも翻訳の読みにくさを指摘しているものが複数あるから、あたしだけのことでもあるまい。

 これはどうもやはり原書にあたるしかない。と、Penguin トレード・ペーパーバック版を入手する。こちらは確かに読みやすい。軍隊用語も気にならない。すらすらと読める。これほど違うと、どこがどうなって、こういうことになるのか、気になってくる。そこで本文最後の一節を比べてみる。文庫版581頁。


 スターリングラードでパウルスに対抗したチュイコフ将軍の第六二軍は、第八親衛軍として長い道のりをベルリンまで進軍した。チュイコフは占領軍の総司令官となる。彼はソヴィエト連邦元帥に昇りつめ、あの危機を迎えた九月の夜、ヴォルガ河畔で彼を任命したフルシチョフのもとで国防省代理にもなった。彼の命令によってスターリングラードで処刑された多数のソ連軍兵士には墓標のある墓はない。統計の上でも彼らは他の戦闘の死者に紛れこんでいる。そこには期せずしてある種の正義が存在すると言えるだろう。


 これはこの長い話の最後の結論だ。

「そこには期せずしてある種の正義が存在すると言えるだろう」

 この「そこ」は何を指すのか、どうにも腑に落ちない。この段落に書かれたことのどこに「ある種の正義」が存在するのか。チュイコフが栄達したことか。他ならぬフルシチョフに引き立てられたことか。まさか、チュイコフの命令で射殺された兵士たちが、墓もなく、記録からも抹殺されたことが「正義」だとは言うまい。原文はどうか。


  His opponent at Stalingrad, General Chuikov, whose 62nd Army had followed the long road to Berlin as the 8th Guards Army, became commander of the occupation forces, a Marshal of the Soviet Union and deputy minister of defence under Khrushchev, who had appointed him on that September night of crisis by the Volga.  The tousands of Soviet soldiers executed at Stalingrad on his orders never received a marked grave.  As statistics, they were lost among the other battle casualties, which has a certain unintended justice.

Penguin Books, 1999, 431pp.

Stalingrad
Anthony Beevor
Penguin USA (P)
2000-05



 「統計の上でも〜」以下はカンマ付き関係代名詞で結ばれた一文。したがってここでの justice は処刑された者たちが処刑された犯罪者として勘定されているのではなく、他の戦闘とはいえ戦死者として扱われていることを明瞭に示す。戦争において、この違いには天と地の開きがあろう。

 そこで明らかになるのは、「統計の上でも」の「でも」が問題であること。この「でも」によって、墓の無いことと戦死者に数えられていることが同様の性格を備えたひとまとまりのものに解釈される。原文では全く別のことがらが、訳文ではまとまって読める。

 墓の無いことは「正義」ではない。しかし、原文ではこのことと、戦死者に数えられていることは別のこと、というよりも対立することであり、ここは「統計の上では」と訳さなければならない。「も」と「は」の違い、細かいことではあるが、文章のつながりの上では鍵を握る。

 ここでなぜ「でも」にしたのか。その方が日本語として通りが良いと判断したのか。しかし、本来、ほとんど対極にあることがらをあたかも同じ範疇に属することのように訳してしまうのは、誤訳と呼ぶのは酷かもしれないが、明白な誤訳よりも質が悪い。

 段落の最初の訳文にも文句をつけたくなる。この段落前半全体の主語はチュイコフである。チュイコフが梯子を一段ずつ昇って、栄達する。訳文はチュイコフが率いた軍を主語にすることで、この流れを断ち切った。カンマ以下の関係代名詞が導く従属節を独立させて前に置いて、チュイコフが上がってゆく姿を押し出そうとした、と一応見える。が、その後で、ベルリンでのことを独立の文にした。文章の流れがここでもぎくしゃくする。

 「あの危機を迎えた九月の夜」。「迎えた」は原文に無い。「迎えた」を加える理由は見当らない。訳文の調子を整えるためとも言えない。むしろ、これを加えたことで、原文の備えている緊迫感が削がれる。原文はリズミカルに畳みかけて、まさに危機だったのだよ、あの夜は、という感覚を伝える。例えば that night of crisis in September では無いのだ。こうであったら意味は同じでもリズムが無くなる。加えて「危機を迎えた九月」では、第三者の視点が忍びこみ、さらにのんびりしてしまう。チュイコフもフルシチョフも危機の当事者である。そこが薄れる。

 もう一つ、「期せずして」。「期せずして」は通常「期待していないにもかかわらず」を意味する。すると、この「期せずして」の主語は後世の人間、ひいては我々読者であろう。しかし、原文では intend していないのは読者ではない。ソ連の軍ないし政府である。この場合、「期せずして」と訳すのは誤訳と言うべきだろう。

 これらを踏まえて改訂してみる。


改訂案
 スターリングラードでパウルスの相手となったチュイコフ将軍は、第六二軍から第八親衛軍となった部隊を率いて長い道のりをベルリンまで進軍し、占領軍総司令官となり、ソヴィエト連邦元帥となり、あの九月の危機の夜、ヴォルガ河畔で彼を任命したフルシチョフのもとで国防相代理となった。彼の命令によってスターリングラードで処刑された多数のソ連軍兵士に墓標のある墓はない。統計の上では彼らは他の戦闘の損害に紛れこんでいる。それは意図したものではないにせよ、正義といえよう。


 「統計の上では」の前に「とはいえ」あるいは「一方、」と入れたいところではある。その方が原文の意図を明瞭にする。しかし、著者はここでそれに相当する言葉を入れていない。入れてもおかしくはないところに入れていないことは、訳者として尊重しなければならない。

 まあ、しかし、そもそもこの訳文があるからこういう分析もできるので、白紙で渡されたら、あたしでもチュイコフにかかるカンマ以下の関係代名詞による従属節を独立させていたかもしれない。

 というわけで、まさに、期せずして、翻訳の勉強をさせてもらうことになった。回り道せずにまっすぐグロスマンにとりかかっていたら、この勉強はできなかった。

 とはいえ、こんな回り道ばかりしているから、肝心のグロスマンがなかなか読めない。(ゆ)

あなたの聴き方を変えるジャズ史
村井 康司
シンコーミュージック
2017-09-16


 いやあ、面白かったあ。ほとんど一気読みに読んじゃいました。面白いのは、新たな風景を繰り広げてくれたのと、語り口の良さ。いろいろと不満のあったこれまでのものを一掃するような、爽快な、今の時代のためのジャズ史がようやく現れてくれました。

 これまでの著者の「いーぐる」での講演とか、あちこちで触れているので、個々にはそう真新しいことはあまりないんですが、こうしてまとめられると全体像としてすごく斬新になってきます。同じ著者の『ジャズの明日へ』もめっちゃ面白かったけど、あれのジャズ史全体への拡大版と言えなくもない。

 ポイントはまずジャズとブルースを分けたこと。ジャズはブルースから発展したのだ、みたいなことが漠然と言われていて、なんとなく納得した気になってましたが、じゃあ、具体的にどういうふうに発展したのか、というと、音源が無いとかいって逃げられてたわけです。

 この本の発刊記念の「いーぐる」でのイベントで、高橋健太郎さんが指摘していたように、同時代の音源とかいろいろ発掘が進んできてみると、ブルースが実はそんなに古くないんじゃないかってことになってきた。そうして改めて記録を見てみれば、20世紀のゼロ年代以前に、ブルースはどうも存在していないとみていい。一方でジャズの淵源をあらためてみてみれば、ニューオーリンズの音楽にブルースの影は皆無といっていい。ジャズとブルースが無縁とは言わないが、ジャズの発生にはどうもブルースは関っていない。むしろ、後から採用されていったものだろう。

 二つ目のポイントはブラック・ミュージックとジャズを分けたこと。別の言い方をすれば、いわゆる「黒白史観」への訣別です。あれって冷戦時代の、なんでも2つに分けて、その対立で物事を説明しようとする心性だってことで著者と合意したこともあります。あれがまったく無意味とは言わない。あの時代にあって、ワケのわからない外来音楽であるジャズをなんとか自家薬籠中のものに押えこもうとした苦闘の末に編み出されたものでしょう。でも、もうそういう操作はそろそろ卒業していい。

 ブラック・ミュージックがあるとして、それはブルースからR&B、ソウル、ヒップホップというのが本流で、ジャズとは別もの。ジャズの演奏家に黒人が比較的多いことは確かですが、アメリカの陸上スポーツやバスケットの選手に黒人が多いからって、誰もそれをブラック・スポーツとは呼ばない。

 それにそもそもブルース自体、黒人音楽と白人音楽、という分け方ができるとして、それぞれの折衷または融合から生まれているんで、R&Bもソウルも、ヒップホップもその点では変わらない。ブラック・ミュージックという枠組そのものがそろそろ賞味期限切れなんじゃないか。

 というようなことまで考えさせられますが、とにかく、黒白対決、黒人のハードバップ対白人のクールという図式があっさり棄てられているのは気持ちがいい。

 三つめは『ジャズの明日へ』の拡大版であると同時に、進化版でもあって、フュージョン以降の姿がより明快です。それには、現在のジャズの隆盛も与っているでしょう。フュージョンを超え、その後の混沌からも脱けでて、新しい段階に入っているところから振り返っている。見通しが立たないところで手探りしているのも、それなりの面白さはありますが、そこから少し高いところに登って振り返ると、ああ、あれはこういうことだったのか、と見えてくる。

 もちろん、ジャズが再び「同時代」の、「青春」の音楽になって、ある世代を作る、というようなことはないでしょうが、より広範囲に、より深く作用するようになることには手応えがある。

 4つめはヴォーカルに光が当っていること。もっともジャズ・ヴォーカルというカタチは確かにあるけれど、それとジャズ本体(?)との関係って、必ずしも明瞭ではない。その関係は、ここでも明確にされたとまではやはり言えない。例えば、ビリー・ホリディの「ブルース」は、同時代のジャズ・ミュージシャンに影響を与えたのかどうか。与えたとすれば、どのようなものか。というのが、ぱあっと、わかったあ、ということにはならんのです。たぶん、これは誰にも明確には言えない。その後のジャズ・シンガーとジャズとの関係も然り。カサンドラ・ウィルスンはMベースの一員だったとして、じゃあ、《BLUE LIGHT TILL DAWN》はMベースとどうつながるのか、あるいは逆にスティーヴ・コールマンやグレッグ・オスビィの音楽に影響があるのか、ないのか。まあ、このあたりは、この本がめざすところとはまた別かもしれません。著者には別途、解明を期待します。

 でも、とにかく、ジャズ史の本に、これだけ大挙してシンガーたちが登場したのは嬉しい。この部分は、小学館の『ジャズ・ヴォーカル』シリーズの第一期に掲載されたものを下敷にしていて、そのシリーズが絶好調ということもあるんでしょうけど、こうして見ると、やっぱり、これまで不当な扱いを受けていたと感じざるをえない。ひょっとして、シンガーには女性が多くて、そのためにマイク・モラスキーが指摘する、戦後のわが国ジャズ文化の男性中心主義から弾き出されたのかもと、「邪推」したくもなります。女子どもにゃジャズはわからねえ、できるはずがない、とかね。

 こういうことを語る著者の語り口がまたいい。ですます調で、やわらかく、すいすい読めるので、ラディカルなことがすんなり入ってしまいます。著者の本をそんなにたくさん読んでいるわけじゃないですが、この語り口は新境地ではないでしょうか。

 どんな本も完璧ではなく、欠点は必ずあります。もっとも欠点というのは、数えあげようと思えばいくらでもあげられるので、一つだけ、最大のものと思えるのをあげますと、これが「アメリカのジャズ」の歴史になっていること。

 第五部が「ジャズの拡散」と題されてますが、これは内容の話で空間的な話ではない。わが国のジャズの話は柱の一本になっていて、そうだ、これも従来のジャズ史の本では見られない、この本の5つめのポイントです。で、そこでは遅くとも1920年代にはジャズがわが国に入ってきていたとある。とすれば、世界の他の地域にも入っているわけで、ヨーロッパだけではなく、中東あたりでも聞かれていたはず。

 この本の結論の一つは、ジャズが世界音楽になっていることですけど、それを言うなら、ジャズはかなり初期の頃から世界的な現象だったし、あり続けている。ここにはキューバのイラケレが取り上げられていますが、だったらヒュー・マセケラを無視するのは不公平ではないか。マセケラが出てきた1960年代ともなれば、スウェーデンでも独自のジャズが勃興してきます。ということはドイツやフランスや、その他の地域でも同様でしょう。さらにはECMが営々と築いてきたものは、何なのか。パット・メセニーやキース・ジャレットばかり出してきたわけではない。

 アメリカのジャズだけでも、その全体像を把握し、ジャズの内部だけではなく、外部にも目配りして、自分なりに咀嚼し、それを筋の通った形で記述するのは、それだけでも大変な作業であることは承知しています。足許のシーンはまだ手が届くとしても、全世界のジャズを呑み込み、消化し、吐き出すのは、一個人のようできるものではないかもしれません。

 しかし、ジャズの歴史を掲げる以上、それは避けて通れない。アメリカのジャズにしても、世界音楽としてのジャズの中に置いて、初めてその真の位置と価値が現れてくるはず。この本の基本的姿勢は、ジャズをジャズの中だけで見るのではなく、アメリカ音楽全体のコンテクストにおいて捉えることで、それはみごとな成果を産んでいます。同じことは、世界音楽としてのジャズでも言えるはず。そして、著者にはそれが期待できる、と思うのです。

 この本のタイトルにある「あなた」っていったい誰なんだろう、と読みおえてあらためて想いました。ジャズではなく、ロックが青春の音楽で、ジャズは40代も後半になって聴きだしたあたしのような人間は、この「あなた」にはどうも入っていないように感じます。副題というか、その後ろに目立たないように書かれている英語タイトルにある "new ears" の方がすんなり納得できます。ジャズを聴くことは、あたしにとっては「新しい体験」。そういう人間には、この本は、聞き逃していたところとか、自己流では気がつかなかった視点とか、いろいろと蒙を啓いてくれます。もうね、読んでると、ああこれも聴きたい、あれも聴かなきゃ、とどんどんと出てくるんですよね。カネもそうだけど、時間が無いのですよ、老人には。ジャズばかり聴いてるわけにもいかないし。罪作りな本です。

 そうそう、さっきちょっと触れた、この本の刊行記念で四谷「いーぐる」で行われた、著者と高橋健太郎、原雅明の三氏による講演はたいへんに面白いものでした。それこそ、メウロコ、ミミウロコの音源が次々に出てきて、一度だけではもったいない。ぜひ、シリーズ化していただきたい。とまれ、まずはゲイリー・バートンだな。(ゆ)

 音楽について書くことの参考になればという下心から読んだのだが、期待した以上に面白い。この本にはいろいろな版があるが、読んだのは市立図書館にあった双葉文庫版。この版の後に The Cellar Door Sessions も出ていて、あたしはこれが一番好きなので、これについて著者が何を言っているかはちと気になる。

 マイルスは一通りは聴いた。これも市立図書館に、幸いなことに初期からめぼしいものは揃っていて、最後は Dark Magus。パンゲアとアガルタは買ってもっている。この二つは出た当時、ミュージック・ライフにもでかでかと広告が出ていたのが印象に残っている。当初は「パンゲアの刻印」「アガルタの凱歌」というタイトルで、広告の中では「刻印」「凱歌」の方が遙かに活字が大きかった。いつのまにか、この二つが落ちてしまったのは惜しい気もする。ニフティサーブの会議室で教えられて、プラグド・ニッケルのボックスも、ちゃんと輸入盤を買っていた。

 聴いたなかで好きなのは上記セラー・ドアとダーク・メイガス。そしてスペインの印象。復帰後はまったく聴いておらず、本書を読んで、やはり一度は聴かなあかんなあ、と思いだした。

 マイルスは一通りは聴いたものの、ザッパやデッドのように、はまりこむまではいっていない。アコースティック時代はプラグド・ニッケルも含めて、ピンとこなかった。セラー・ドアでも一番気に入っているのはキース・ジャレットとジャック・ディジョネット。ジャレットはこんな演奏はこの時でしか聴けないし、ディジョネットはスペシャル・エディションも好きだけれど、このバンドでの演奏はやはりピークだ。

 ダーク・メイガスはなぜかアガ・パンの後と思いこんでいたのだが、本書によると前になる。やはり、この昏さがアガ・パンよりも胸に響いた。終盤、失速するようにぼくには聞えるアガ・パンよりも、最後まで疾走しつづけるところもよい。

 マイルスのトランペットの音も、印象に残っていない。うまいと思ったこともないのは、「ジャズ耳」がぼくには無いということか。ぼくにとってのマイルスは優れたプレーヤーというよりも、バンド・リーダー、ミュージック・メイカーで、むしろクインシー・ジョーンズに近い。ジョーンズよりは現場で、自ら引っぱってゆくのが違う。

 ということで読みだして、いや、蒙を啓かれました。著者はぼくに近いところからマイルスを聴きはじめて、アコースティック時代の勘所もちゃんと聞き取っている。ロックも幅広く聴いている。ルーツ・ミュージックはそれほどでもないようだが、こういう広い耳を養いたい。器用というのではない、それぞれの勘所をちゃんと聞き取る柔軟性と、その上で取捨選択をする度胸を兼ね備えたい。後者はおのれの感性への信頼と言い換えてもいい。

 とはいえ、著者やぼくのように、ジャズよりもロックを先に聴いていて、そちらが青春という人間の耳には、エレクトリック時代の方がピンとくるのだろう。ジャム・セッションが嫌いと言い切る著者の耳は、ジャズが青春だった人びとの耳とは異なる。

 ジャズの定型のソロまわしは、ぼくも嫌いだ。回す楽器の順番まで決まっているのもヘンだ。あれをやられると、どんなに良いソロを演っていても、耳がそっぽを向く。似たことはブルーグラスでもあって、ブルーグラスが苦手なのはそのせいもある。そうすると、あのソロの廻しはアメリカの産物、極限までいっている個人主義の現れとも見える。ジャズのスモール・コンボは、ビッグバンドが経済的に合わなくなって生まれた、とものの本には出ているが、それだけではないだろう。オレがオレがの人間が増えたのだ。同時にそれを面白いと思う人間も増えたのだ。アンサンブルよりも、個人芸を聴きたいという人間が増えたのだ。クラシックでも第二次世界大戦後、指揮者がクローズアップされるようになる。オーディオ、はじめはハイファイと呼ばれた一群の商品の発達も、同じ傾向の現れとみえる。

 その点ではグレイトフル・デッド、それにおそらくはデューク・エリントン楽団は、集団芸であるのは面白い。エリントンを好む人たちのことは知らないが、デッドヘッドは自分だけが楽しむのでは面白くない人たちでもあった。

 マイルスはオレがオレがの人だったことは、本書にも繰り返し出てくる。面白いのは、オレを通そうとして、集団芸にいたるところだ。ザッパの場合、集団芸から出発して、最終的に個人芸を極める。後期になるほど、そのバンドは、ジョージ・セルにとってのクリーヴランド、バーンスタインにとってのニューヨーク、ワルターにとってのコロンビアに似てくる。マイルスとバンドとの関係は、それとは異なる。と本書を読んでいると思えてくる。

 マイルス本人の意識としては集団芸を追求しているつもりはたぶん無かったであろう。しかし、その方法は、自分はバンドの上に立って指揮統率し、一個の楽器としてこれを操って目指す音楽を実現しようとする、というよりは、自分もメンバーとなったバンド全体から生まれる音楽がどうなるか、試しつづけた、と本書を読むと思える。

 マイルスとしては、いろいろなメンバーで、あれこれ試す、ライヴをやったり、スタジオに入ったりして、試してみるのが何よりも面白い。それを商品に仕立てるのはどうでもいい、とまでは思っていなかったとしても、めんどくさい、テオ、おまえに任せた、とは思っていただろう。

 ザッパは商品に仕立てるところまで自分でやらないと気がすまなかった。デッドはマイルス同様、商品を作るのはめんどくさいが、しぶしぶやっていた。他人に任せても思わしい結果が出ない。つまり、デッドはテオ・マセロに恵まれなかったし、そういう人間は寄りつかなかった。それにとにかく演奏することを好んだ。

 マイルスもライヴは好きだっただろう。ただ、スタジオで、好きなように中断したり、やりなおしたり、組合せを変えてみたり、という実験も同じくらい好きだった。ライヴで試してみることと、スタジオで試してみることはそれぞれにメリット、デメリットがあり、出てくるものも異なる。その両方をマイルスは利用した。

 そのことはどうやら最初期から変わっていない。パーカーのバンドのメンバーとして臨んだ時から、モー・ビーとのセッションまで、一巻している。

 デッドは幸か不幸か、サード、Aoxomoxoa を作った体験がトラウマになったのではないか。そのために、それ以前から備えていたライヴ志向が格段に強化され、ライヴ演奏にのめり込んでいったようにみえる。

 それにしても著者の断言は快感だ。のっけからマイルス以外聴く必要はないと断言されると、あたしなどはたちまちへへーと平伏してしまう。もちろん、そんなことはない。ザッパもエリントンも聴かねばならない(ジャズを聴くんだったらモンクとミンガスも聴かねばなるまい)。デッドはもっと聴かねばならない。しかし、一度断言することもまた必要だ。そこで生まれる快感から、人の感性は動きだすからだ。

 そしてとにかくまず聴いてナンボだということ。本書全体がマイルスを聴かせるための仕掛けなのだが、その前に著者がまず徹底的に聴いている。ここに書いてあることに膝を叩いて喜ぶにせよ、拳を振り上げるにせよ、著者がマイルスをとことん聴いていることは否定できない。たぶん、著者は何よりもその報告をしたかった。聴いてみたことの記録を残したかったのだ。ここまで聴いて初めて、何かを聴きましたと言えるのだ、と言いたかったのだ。モノを言うのは聴いてからにしろ。タイトルは『聴け!』だが、内実は『聴いたぞ!』だ。『おまえは聴いたのか?』だ。

 もちろん、いつ何時でもそんな風に聴かねばならないわけではない。ユーロピアン・ジャズ・トリオの代わりに、In A Silent Way を日曜のブランチのBGMにしたっていい。オン・ザ・コーナーをイヤフォンで聴きながら、原宿を散歩したっていい。ただ、本書のような聴き方をすることが、マイルスの音楽には可能であることは、頭の隅に置いておくことだ。そうすれば、マイルスの音楽はそれぞれのシチュエーションにより合うように、その体験をより楽しめるようになるはずだ。

 これはマイルスの音楽の聴き方であって、同じ聴き方がザッパやエリントンやデッドにもあてはまるわけではない。何よりも音楽の成り立ち方が異なる。それぞれにふさわしい聴き方を編み出してゆく必要がある。というよりも、それを見つけることこそが、音楽を聴くということなのだ。バッハとモーツァルトでは聴き方を変えねばならない。ビートルズとストーンズでは聴き方は違う。ふさわしい聴き方を見つけるためにはとにかくとことん聴かねばならない。そもそもマイルスの音楽が自分に合うかどうかすら、聴いてみなければわからない。

 「ついでにいえば、ぼくはこうしたムチャクチャな商売のやりかた、2度買い3度買いさせて反省の色もない業界の強引なやりかたこそがファン激減の最大要因と考えている」(11pp.)

 音楽を真剣に聴く人間が激減している最大要因もそこにあるとあたしも考える。その背後には著作権への勘違いないし濫用がある。とはいえ、悪いのは「業界」ばかりではない。

 「つけ加えれば、ジャケットが紙になろうが、オトが良くなろうが、音楽を最深部で捉えていれば、“感動”の大きさに変化はないとうことを知るべし」(12pp.)

 つまり、そのことを知らない人間、音楽を聴くのではなく、所有することで満足する人間が多すぎる。ジャケットが紙になったから、オトが少し良くなったからと、同じ音源を2度買い3度買いする人間がいるから、業界もそれを商売のネタにする。できる。

 音楽はそれが入っている媒体を所有するだけでは、文字どおりの死蔵なのだ。紙の本は所有するだけで読まなくても、そこから滲みでるものがある。音楽は、レコードやファイルをいくら所有しても、何も滲みでてはこない。紙の本を読むためには、そのためのハードウェアは要らない。しかし、音楽を聴くには、演奏してもらう場合のミュージシャンも含めて、そのためのハードウェアがいる。楽譜を読めたとしても、聴くのとは異なるし、すべての音楽が楽譜にできるわけでもない。

 そう見るとデジタル本をいくら持っていても、滲みでてくるものは無いなあ。

 漱石全集のように断簡零墨まで集めた全集を読破することで読書力は飛躍的に高まる。骨董品の鑑定力を身につけるためには、良いもの、ホンモノをできるだけ多く見るしかない。音楽もまた、一個の偉大なアーティストを徹底的に聴くことで、聴く力が養われる。音楽をとことん聴くこと、聴いたことを表現することにおいて、これは一つの到達点だ。ここをめざすつもりはないが、この姿勢は見習いたい。(ゆ)

 本が届いたときには驚いた。本文だけで620ページの、活字の詰まったA5判のハードカヴァーだった。紙が良いのか、2ヶ所に挿入されたクラビア頁のせいか、アメリカの本にしてはやたら重い。計ってみると1キロを超えている。この1キロ強の荷物を、読み終わるまで、どこへ行くにも持って歩いた。面白くて暇さえあれば読まずにはいられなかったからだ。

 著者デニス・マクナリー(1949-)はデッドの Publicist つまり、対メディア対策の責任者だった。ロック・バンドのPRマンという肩書で人を見てはいけないのである。ちなみに「PR」は日本語では「宣伝」あるいは「パブリシティ」とほぼ同義だが、アメリカでは "public relations" の略であり、渉外担当の方が近い。時には人と人を結びつけるフィクサーのようなこともやる。

 著者はアマーストの University of Massachusetts でアメリカ史の博士号を得ているし、1979年にはジャック・ケルアックの伝記も出している。本を書く態度はむしろ学者のそれだ。デッドのライヴに接するのは1972年。その体験から、戦後アメリカのカウンターカルチュアの歴史を2巻で書くことを思い立つ。第1巻がケルアックの伝記。2巻めがデッドの歴史である。ケルアックの伝記をマクナリーはデッドに送り、その後、サンフランシスコに移って、『サンフランシスコ・クロニクル』紙にデッドの年越しコンサートについての記事を書く。マクナリーに会ったガルシアは、マクナリーがケルアックの伝記の著者であることを知ると、デッドの歴史を書くことを提案する。1983年、マクナリーはビル・グレアムから頼まれて、記録管理者の仕事を始める。その翌年の夏、新たなメディア担当の必要性が出てきたとき、ガルシアの推薦でマクナリーがこの仕事につくことになった。デッド公式サイトにニコラス・メリウェザー書いている UC Santa Cruz のデッド・アーカイヴ収蔵品についての記事に、1984年7月11日付でマクナリーがデッドの広報担当に就任したことをメディアに伝えるガルシアの書簡の写真がある。以後、かれはデッドのツアーにも同行し、バンド・メンバーやクルーだけでなく、かれらの家族、親族、友人たちとも深くつきあうことになる。その結婚に際してはビル・クロイツマンが花婿付添人を勤めているし、ロバート・ハンターは〈He's Gone〉の自筆歌詞を贈った。

 グレイトフル・デッドといえども人間の集団であるからには、その内部の人間関係は複雑怪奇であるし、さらに通常の集団ではありえないほど密接にからみ合っていて、しかも常に変化している。デッドと外部世界とのインターフェイスを果たすためには、そうした関係をも裁いていかねばならない。時にはメンバーの一人が直接言い難いことを他のメンバーに伝えるメッセンジャーにもさせられる。

 そうして鍛えられた皮膚感覚と、おそらくはもともと備えている観察力、そして大量のデータを処理する学者としての能力によって、これは幇間本でもなければ、内幕暴露ものでもなく、外殻をなでるだけのタレント本でもなくなっている。副題 The Inside History of the Grateful Dead とある。公式ないし公認のグレイトフル・デッドというバンドの伝記という位置付けだ。グレイトフル・デッドという集団、バンドを核とし、クルー、スタッフがその周りを固める、緊密に結びあった人びとへの愛情を底流としながらも、叙述はあくまでも冷静だ。個人ではなく、人間集団の伝記、しかも関係者のほとんどがまだ生きているということからくる制限はあるにしても、第一級の著作物にちがいない。

 構成は2本の柱から成る。メインの方は、ガルシアの両親から筆を起こし、ガルシアの遺灰がサンフランシスコ沖の太平洋に播かれるまでを時系列で追う。こちらはバンドの最初の5年間、1970年までに極端に力を入れ、70年代半ばの休止期以降はざっくり、80年代以降はすばやく駆けぬける。もともとこれはカウンターカルチュアの歴史として書かれているわけだから、1960年代に叙述が集中するのはむしろ当然だ。

 一方で、デッドがバンドとしても共同体としても最も幸せだったのは、おそらくは1970年代、1972年と77年およびそれぞれの前後の時期ではなかったか、とこれを読むと思う。80年代後半のヒット・シングルなどは、デッド現象全体から見れば、デッド共同体内部でいえば、大した意味を持たない。むしろそれによってデッドや昔からのデッド共同体は「迷惑」を蒙る。バンドはヒットによって、破滅の淵に立たされる。もう一発ヒットがあったら、バンドは崩壊していた、という記述は切実だ。

 キャリアの後半、80年代のデッド世界で起きていた最も重要なことは、1つはダン・ヒーリィによるライヴ・サウンドの革命であり、いま1つはデッドヘッド現象だった、と著者は指摘する。後者が前者を支える構図だが、それに加えてアメリカ国内での経済中心の移動も関っているらしい。この時期、東部の重厚長大産業から、カリフォルニアの宇宙航空、バイオ、娯楽、そしてデジタルへと移る。カリフォルニアだけで世界第8位の経済規模をもつ。80年代のオーディオはデジタルが生まれる一方で、アナログがピークに達した。一方でバンドの演奏は袋小路に陥っている。これが打開されるのは、皮肉にもガルシアの昏睡になる。

 メインの各章を縫うように Interlude 幕間として置かれるサブのラインでは著者の直接体験したことを中心の素材としている。当然、1980年代以降が主な対象だ。メインの表向きの客観的歴史はバンドのキャリアの前半に集中し、後半はサブの裏側の主観的エピソードを積重ねてカヴァーする。ここではデッド共同体、特に核であるバンド、そのすぐ外側を囲むクルー、スタッフの活動が具体的に描かれる。「全社会議」の様子や議題、サン・ラファエルの本部のスタッフ(ほぼ全員女性)やバンドとともに移動するクルー(ほぼ全員が男性)、そしてバンドの弁護士の性格、役割、ふるまいが、ツアーのある1日を追う形で述べられる。

 早朝、食事担当(ケイタリング)が作る卵とベーコンの匂いから始まり、深夜、ステージから降りてきたバンド・メンバーが、同じケイタリング担当から各々に注文しておいた夜食を受取って車に乗り込み、空港から次の街へと飛び立ってゆく一方で撤収が完了し、クルーが立ち去るまでが描かれる。会場への人員機材の到着、設営とテスト、バンドの到着、音出し、開場。コンサートが進行していく間のステージや楽屋の様子。その叙述に鏤められたメンバー、クルーやスタッフの間の関係は、個別の記述ではあるが全体を示唆する。この部分は内部にいた人間にしか書けないし、適度の距離をとった記述は信頼感を増す。一人称の代名詞を避け、自らのことも Scrib すなわち「書記」ないし「記録係」と呼ぶ。

 サブ・ラインの記述は序章から始まる。コンサートが始まる直前、扉が締められたが、バンドはまだステージに現れない、あの輝かしくも宙ぶらりんな瞬間から始まる。その時間を断ち切り、ショウの幕を切って落とすのは、進行を仕切るプロダクション・マネージャー、ロビー・テイラーの「客電」の一言だ。

 それが口にされるまでの短かい間に、著者はまだミュージシャンのいないステージの上を描写する。やがて、サウンド・ディレクターのダン・ヒーリィと、照明ディレクターのキャンディス・ブライトマンが、ガードマンに付き添われて、客席の中に設けられている席に向かう。ステージ上のモニタ担当エンジニア、ハリィ・ポプニックが席に着いたのを見つけて、聴衆の歓声が大きくなる。ツアー・マネージャーのジョン・マッキンタイアが楽屋でバンド・メンバーに声をかける。「みんな、時間だよ」。それぞれの儀式を切り上げて、メンバーはだいたい一列になってステージへと出てゆく。テイラーがヘッドセットにかがみこんでつぶやく。「客電」。

 それとともに会場付属の照明が消され、ショウが始まる。デッドはある時期から音響と照明はすべて自前のものを使っていた。専用の機材を揃え、専門のスタッフを抱えていた。音響システムは有名な「ウォール・オヴ・サウンド」を頂点とするが、80年代以降も当時最先端の機材を惜しみなく投入している。ライト・ショウも、アシッド・テストの頃からデッドのショウの重要な要素であったし、80年代以降は巨大なシステムを作っていたことは、ライヴ・ビデオでもよくわかる。1回のショウに注ぎこまれる電気の量は莫大だ。

 本書の最大のメリットの一つは、こうした裏方たちの存在が大きく取り上げられていることだ。グレイトフル・デッドは6人のメンバーだけがデッドだったのではなく、ロバート・ハンター、ジョン・バーロゥの二人の作詞家を含めたものだけでもなく、クルー、スタッフまで含めた集団だった。デッドのクルーは長く勤めた者が多く、リーダー格のラム・ロッド・シャートリフは音楽業界で一つのバンドのために働いた最長記録の保持者ともいわれる。報酬もバンド・メンバーと変わらず、全体会議などでの発言権も同じ。表には出ないが、かれらなくしてバンドの活動はありえなかった。

 ブレント・ミドランドの死に関連して、デッドの「仕事」は、誰にとってもおそろしくシビアな側面をもっていたことが語られる。メンバーにとってもそうだが、クルーをはじめとするスタッフについてはさらに厳しかった。たとえばデッドにはセット・リストというものが無かった。今日何をやるか、次に何をやるか、バンド・メンバーすらわからない。音響と照明のスタッフの仕事はとんでもなく難しくなる。誰もが、一晩に一度は、もうダメだ、やってられるか、やめてやると思うことがあった。それを支え、つなぎとめていたのは唯ひとつ、ガルシアへの愛情だ、と、著者はキャンディス・ブライトマンの証言を引用する。

 そしてそのガルシアは、ファンや聴衆からの有形無形の圧力と、その肩に生活がかかっている人間が多すぎる重みに圧し潰されていた。メンバーやクルーをつなぎとめるかれへの愛情は、ともすれば負担にすりかわりえる。経済的な成功もかえって重圧となる。ジャニス・ジョプリンに起きたことは、時間はかかったにしても、やはりガルシアに追いついたのだった。1992年以降、ガルシアの健康が明らかに悪いにもかかわらず、ツアーをやめることができなかったのはその現れだ。デッドがガルシアを酷使し、血を吸っていたというジョン・カーンの非難はまったく的外れでもない。

 あるいはむしろ、ガルシアが30年保ったことの方が驚異なのかもしれない。ガルシアは読書家だったし、映画は「狂」のつくほどのマニアだったし、音楽はおそろしく幅広く聴いていた。絵も描いた。そうした活動の積重ねが防壁として働いた。ジャニスやミドランドにはそうしたものが無かった。

 デッドの共同体はさらに大きい。デッドヘッドをも含むからだ。その中には上院議員やノーベル物理学賞受賞者もいる。デッドを聴きながら操縦していた空軍のパイロットもいる。1994年、ニューヨークの舞台裏にいたデッドヘッドの上院議員のところへホワイトハウスから電話がかかってくるところは抱腹絶倒だ。この上院議員 Patrick Leahy は民主党で、上院最長老の一人。ガルシアの同世代。Wikipedia の記事によれば、議員としてのオフィスにもデッドのテープ・コレクションを備えている。さらには本人はデッドヘッドではないが、ジョセフ・キャンベルがコンサートに来て、感心したという話もある。

 著者の視野はさらに広い。デッドのビジネス面での関係も抜目なく押えている。ただし、ビジネスの手法よりは人物とそれぞれとの関係に焦点をあてる。プロモーターとレコード会社が主な対象だ。この方面で圧倒的に興味深いのはビル・グレアムである。

 デッドにとって良くも悪しくも最も重要なプロモーターはグレアムだった。著者によれば、グレアムはデッドの音楽がめざすところをきちんと評価し、尊敬もしていた。そして、デッドと本当に親密な関係になりたいと願っていた。デッド・ファミリーの一員になりたかった。だからデッドをあらゆる方法で援助している。ライヴのブッキングだけでなく、金を貸してもいるし、1976年の「復帰」にも大きく貢献している。一方で、デッドにはグレアムの性格、イベントを自分の「作品」「所有物」と考え、偏執狂的なまでに完璧を求める性格がどうしても容認できなかった。だから、グレアムに頼り、利用し利用されつつも、グレアムを全面的に受け入れることはついにしなかった。

 一方、興行主としてのグレアムは、ショウを救う、守ることについては尊敬に値する。1973年ロング・アイランドのナッソウ・コリシアムでのデッドのショウの始まる前、数千人の若者たちが入口に殺到したとき、グレアムは拡声器を掴んで単身その前に立ちはだかった。ある少年が「カネの亡者!」とあざけると、グレアムは20ドル札をとりだして相手の足元に投げつけてから、そいつのチケットをビリビリに引き裂いた。群衆はしばしの間静かになっただけだったが、ひとつ対応を間違えれば、1979年12月3日、シンシナティのザ・フーのコンサートでサウンド・チェックを本番と思いこんだ群衆がなだれこみ、11人が圧死するのに匹敵するような大事故になっていたところだ。この時コンサートのプロモーターはバンドのロード・マネージャーと夕食を食べに行って不在だった。

 グレアムは近寄りたくは金輪際ない人間だが、傍で見ている分にはたいへんに面白い。自伝は読み物としては格好だろうが、書いてあることを鵜呑みにするわけにはいかないのはもちろんだ。ぜひとも誰か、きちんとした伝記を書くべきだが、それにはデッドのメンバーも含めて、もう少し関係者が死ななければなるまい。

 興味深いという点ではもう一人、アウズリィ・スタンリィ、通称ベア(熊)がいる。かれはデッドのサウンド・エンジニアを勤めてもいて、内部の一人ではあるが、いささか異なった位置にいる。一般にはアシッド・テストをはじめとするLSDの供給者として知られる。生まれる時代がほんのわずかずれていれば、一流の科学者として名を成していたのではないか。ドクロに稲妻のロゴは、ウッドストックの楽屋でどのバンドも似たようなツール・ケースを使っていることから区別のためにかれが思いついた。このロゴの稲妻に先端が13個ある、というのは本書で初めて知る。星条旗の星、つまり13州と同じ。この人は著者にとっても捉えがたいのか、あるいはまだ書けない部分が多々あるのか、そのイメージは必ずしも明瞭でないが、それだけにますます興味を惹かれる。

 グレイトフル・デッドが残したものは、時間が経つにつれて重要性を増しているようだ。1本のコンサートを丸ごと録音した音源がそのまま作品群として繰り返し鑑賞される最初の、そして現在のところ質量ともに抜きんでて最大の実例だ。録音は音楽の姿をまったく変えてしまったが、その技術の適応の実例としても、ベストのひとつである。そこはほとんど無限の豊饒の宇宙である。その一方で、やはり固有の世界観を土台とし、様々な暗黙のさだめがある。その方言やスラング、ジャーゴンを理解し、その音楽が生まれてきた背景を把握することは、より深く聴きとり、それぞれにより豊かに体験することを可能にする。

 今年結成50周年を迎えて、30年の活動を1年1本ずつ選んだ未発表の30本のコンサート録音でカヴァーするボックス・セット《30 TRIPS AROUND THE SUN》が秋にリリースされる。あるいはそれを待たずとも、ネット上で公開されている聴衆録音で同様なことは可能だ。すでに公式リリースされている録音だけで自分なりの「30年セット」を組みたてることもできる。マクナリーによるこの公式伝記をそうした航海の座右に置いて、豊饒の海に棲むものや起きることをより精密に聴きとりたいと思う。(ゆ)

 結局ジャズはまず器楽なのだ。むろんヴォーカルのディスクも取り上げられてはいるが、それも声を楽器のひとつとして捉えている。ジャズは楽器を使う音楽だ。無伴奏歌謡はジャズにならない。これは音楽の中では異端の状態だ。音楽は人間の声が土台で柱で壁で天井で、そしてその中の空気なのであって、うたに始まり、うたに終わる。それとは対極のところにジャズはある。あるいは対極のところをジャズはめざす。

 それはつまるところ「ジャズというジャンルは、この本の中でも言及してきたように、アンサンブルとソロ、楽曲と即興の関係について、さまざまな試行錯誤がなされてきた分野である」(198pp.)からだ。ジャズとはこういう音楽で、そのためにあの姿、形をとってきた。他の音楽はこういうことを考えない。しようとしない。したいと思わない。しようとするときは、否応なくジャズの姿をとるしかない。

 そしてその試行錯誤に最も適した楽器を使用する。人間が息を使って音を出す楽器が主に使われる。弦楽器は片隅に追いやられる。ヴァイオリンは限られた天才しかできない。凡庸なジャズ・サックス奏者は普通にいるが、凡庸なジャズ・ヴァイオリニストというものはいない。ギターも電気増幅によって音が持続できるようになったからだ。凡庸なジャズ・アコースティック・ギタリストは存在しない。ベースは例外だが、弦楽器というよりは打楽器の仲間とみなされたのだろう。ピアノも同じだ。

 この試行錯誤を別のことばでいえば「遊び」である。生活必需品、衣食住は供給しないし、他人の暴力から守ってもくれない。ただのヒマ潰し、現実逃避だ。ただし、あってもなくても同じではない。人間は遊ぶから人間なのだ。そして音楽は人間だけの遊びだ。現在のところ進化の最終形態だ。音楽を演ることを楽しむ、音楽を聴くことを楽しむところまで、生命は進化してきたのだ。

 言うなれば、ジャズは、生物としての人間が到達しうる最も先端の状態である。ジャズがたった百年の間に、これだけめまぐるしくも、急激に変容したのも、だから当然のことではある。百年しかないその過程を「歴史」と感じるのは、その中に人間の、ひいては生命の進化全体が凝縮されているからだ。

 ここで取り上げられているのはさらに短かい。まあ、古生代までは省略して、いきなり恐竜から始めたようなものですな。その過程の中で、時々の最先端を形成し、次の世代の先駆ともなった活動の軌跡を集めたのがこの100枚、ということになろう。

 それにしても「アルバム」という単位がまだ生きていることに、ぼくは不思議の念に打たれる。もともとは商売のための単位でしかなかったものが、ジャズにあっては音楽自体の要請とうまくかち合ったということだろうか。むしろジャズにとっては、LPというメディアは必ずしも居心地の良いものではなかったはずだが、そのことがかえって幸いしたのだろうか。

 音楽にとって録音は副次的な活動である。それは記録であり、軌跡である。録音を作成し、販売し、それを聴くことが主な音楽活動であるとするのは錯覚でしかない。録音がデジタル化されることで、そのことがあらためて露わになった。デジタル化はアナログでは見えにくいことを暴露する。これもその一つだ。

 日本のジャズ受容の特殊性が、ここでも働いているのかもしれない。日本、とりわけ戦後におけるジャズの消化は圧倒的に録音を媒介とした。ジャズだけのことではなく、音楽に限った話でもないが、ジャズは録音偏重が極端なケースでもある。もっともロックの場合はさらに偏りが進んでいるが、これは音楽自体の成立ちにも関わる。乱暴に言うと、ロックは録音を作る、ジャズの録音はできる。

 興味深いのは、単位としてディスクを看板に掲げながら、いざディスクの内容を紹介するとなると、個々のトラック、楽曲が挙げられるところ。ディスク全体の構成や流れに立つ記述で面白いものもあるが、つまるところはこの曲が入っているからこのディスク、という姿勢におちつく。ディスクはやはり中短篇集、せいぜいが連作集であって、1本の長篇にはなれない。中短編集が長篇に劣るのではない。「良い短篇集は数冊の長篇に匹敵する」とは筒井康隆も言っている。しかし、どんなに優れた中短編をいくら集めても、長篇にはならない。ジャズの文脈で長篇に一番近いのは、1本のライヴ、コンサートだろう。だからこの100枚の中で長篇に最も近いのはアート・アンサンブル・オヴ・シカゴとサン・ラーのものになる。1枚1曲のようなものもあるが、それは長篇というよりは、ノヴェラ、長い中篇だ。

 アルバム単位で把握しながら、具体的な評価軸は楽曲の出来になる。なぜ、素直に楽曲に行かないのか。アルバムという枠組を、なぜはさむのか。これはやはり「録音症候群」ではないか。「アルバム」という枠組はCD由来ではない、LPというメディアが分かちがたく絡んでいる。

 もちろんLPを離れた論議もジャズをめぐって行われているのだろうが、ジャズへの導入口というと、判で押したようにディスク・ガイドの形をとるところを見ると、ジャズがつながれているLPというメディアの軛の強さに、あらためて驚く。視野が広く、しかも刺激的な文章が詰まっているだけに、その部分がどうにも訝しい。

 訝しいというより、もどかしい、と言うべきかもしれない。これもこうした本の常としてブートレッグは御法度だ。しかし、1987年11月、ブエノス・アイレスでのスティングの公演のブートレッグで聴けるケニー・カークランドのソロは、オフィシャルの《BRING ON THE NIGHT》のものを数段上回るし、ここでのスティーヴ・コールマンの演奏もまた最高なのだ。このブートの元は現地の放送音源のはずで、オフィシャル・リリースが出ないかと淡い期待をしておく。

 もどかしさはもう一つある。

 ここにフェラ・クティが登場しない(巻末の対談でバラカンさんの口から洩れるだけ)のは、とことん遊ぼうとする著者の姿勢からすれば、当然なのかもしれない。フェラにとって音楽は「単なる」遊びではなかった。それは命懸けの、生きることそのものであって、圧倒的に非対称な相手と取っ組み合い、音楽という「遊び」の形をとることでかろうじて崖っ縁で踏みとどまっていた。音楽という「遊び=文化」の形をとったおかげで、最後に笑うことができた。後に残って、人間の真の姿を暴きだすのは文化だからだ。ナチが抹殺しようとした「モダンな芸術作品」が、爆撃で建物ごと埋められ、遙か後年地下鉄工事で掘り出されるように。

 もっともそうして見れば、パコ・デ・ルシアも、チューチョ・バルデスも、ヒュー・マセケラも、ヤン・ガルバレクもここには登場しない。ブラジル人は登場するから、それは著者の好みだと言ってすませることもできる。

 とはいうものの、なのだ。ジャズとはまずなによりもアメリカの産物、という暗黙の了解が底に流れているのを、やはり感じてしまう。

 確かにジャズはアメリカに生まれてはいる。アメリカでしか生まれなかったでもあろう。そしてアメリカで育ってきたものでもある。最も面白いことは大部分アメリカで起きてもきたし、今でもいるだろう。しかし新しい冒険に乗出している者がアメリカに限らないことは、大友良英を例として挙げられてもいる。日本やアメリカで起きていることが、日本とアメリカ以外で起きていないはずはない。

 そこまで期待するのは酷だろうか。しかし、「多様な試み、多様なジャンル、多様なタイプの音楽を先入観なく聴いて、そこから自分なりの新たな音楽聴取の喜びを見いだし、そうすることによって以前聴いた音楽にま新しい意味を聞きとる……という『耳の更新』を常に行う聴き手が増えることによって、『明日のジャズ』は生き生きとした豊かなものになるはずだ」(『ジャズの明日へ』)と20世紀の最後に宣言した著者であってみれば、そしてこの本の冒頭にも「ジャズも雑食のほうが楽しいとおもうよ、ぜったい」と呼びかけた著者であってみれば、もっと雑食を、と期待してしまうのは、手前勝手だろうか。

 これは導入口だから、というのなら、それは違う。いりぐちであるからこそ、ジャズの世界の奥行と拡がりは可能なかぎり提示すべきだ。


 それにしても、この本はいったい誰に向けて書かれたのか。巻末対談で想定読者対象の話が出てくるところを見れば、そう思うのはぼくだけではない。「『デートコースって何? 菊地がやってるマイルス風のバンド? ふーん』とかタワけたことを抜かしているコアなジャズ・ファンのおじちゃんたち」(203pp.)にはもう遅すぎるし、「ちゃぶ台の前に正座して、玉露を飲み、最中を食いながら」(37pp.)アート・ペッパーを聴く人間、なんて鉄の下駄を履いて探しても見つかるまい。そのデートコースのライヴで踊りくるっている人たちは、そもそもこんな本など必要としないだろう。

 思うに、軸足は他に置きながらジャズの周囲をうろうろし、つまみ食いしながらも、深く足を踏み入れるのはためらっている、そういうリスナーが一番ありがたがるのではないか。そして、同じように「アルバムの軛」につながれている人間。つまりはぼくのような中途半端な人間にとって、霊験あらたかなのではないか。読みながら、まるでぼくのために、ぼくのためだけに、書いてくれたような感覚を何度も覚えた。

 そう感じながら、あと一歩、いや半歩、踏みこんでくれたら、と思うこともまたしばしばで、そのもどかしさはどこから来るのか、というのを書きながら探ってみると、上述のようなことになる。

 最後に著者が言うように、この100枚、あるいは追加も含めて300枚を、順不同、シャッフルして聴いてみるのが、最も実り多いだろう。むしろ、全部をライブラリにぶちこんで、曲もシャッフルして聴いてみるのが一番かもしれない。あるいはそこで、ここでもまだ隠されている様相が、わらわらと立ち上がってくるのではないか。(ゆ)




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