
フレヤ・スターク『チグリス騎馬行』

02月08日・火
公民館に往復して、図書館から借りた本をピックアップ。イアン・カーショーのヒトラー伝の上巻と最新刊の『ナチス・ドイツの終焉』。浩瀚なヒトラー伝でも決着がつかなかった疑問、ナチス・ドイツはなぜ最後まで抵抗を続け、全ドイツを道連れにできたのか、という疑問に挑戦したもの。どちらも部厚いが、どちらも原注・文献が2割はある。ヒトラー伝は二段組。『ナチス・ドイツの終焉』の訳者は1934年、ナチスが政権をとった翌年の生まれだから87歳。それでこの仕事をしたというのは、本当に自分でやったのなら偉いもんだ。冒頭を読むかぎりでは、訳文にひっかかるところは無い。
もともとはワシーリィ・グロスマンを読もうとして、その準備のためにアンソニー・ビーヴァーのスターリングラード攻防戦を読んだら、そこから滅亡までのナチスの歴史にハマってしまった。肝心のグロスマンはそっちのけになる。まあ、いずれ戻れるだろう。
##本日のグレイトフル・デッド
02月08日には1970年と1986年にショウをしている。公式リリースは1本。
1. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
このヴェニュー、4日連続のランの最終日。3ドル。開演7時。タジ・マハル共演。
オープナー〈Smokestack Lightnin’〉と5曲目〈Sittin' On Top Of The World〉が《The Golden Road》所収の《History Of The Grateful Dead, Vol. 1 (Bear's Choice)》でリリースされた。オリジナルの《History Of The Grateful Dead, Vol. 1》は1970年02月13日と14日のフィルモア・イーストでのショウの録音からの抜粋だが、2001年に《The Golden Road》のボックス・セットに収録された際、4曲が加えられた。その4曲のうちの2曲がこの日の録音。
〈Smokestack Lightnin’〉はこの日の西での演奏と13日の東での演奏を聴き比べることができる。ピグペンがリード・ヴォーカルのブルーズ・ナンバー。ハウリン・ウルフが最も有名だろう。ジョン・リー・フッカー、ヤードバーズ、アニマルズも録音している。1967年03月18日サンフランシスコで初演。1972年03月25日ニューヨークがピグペンでの最後。1983年04月09日に復活し、1994年10月18日マディソン・スクエア・ガーデンが最後。計53回演奏。
ブルーズ・ロック・バンドとしてのデッドの実力がわかる。もっともガルシアのギターはブルーズ・ギターではない。後にはばりばりのブルーズ・ギターも弾くが、この時期は典型的なブルーズのフレーズはほとんど弾かない。ピグペンのヴォーカルも典型的なブルーズ歌唱ではない。それでもブルーズの感覚は濃厚だ。タジ・マハルも典型的なブルーズの人ではないが、この演奏を当時どう聞いたか、何か記録があれば面白いだろう。タジ・マハルは前年に傑作《Giant Step/De Ole Folks At Home》を発表している。少なくともガルシアはこれを聴いていたはずだ。
〈Sittin' On Top Of The World〉はブルーズというよりはより広いアメリカーナの共有財産として、オールドタイム、ヒルビリー、ブルーズ、ウェスタン・スイング、ブルーグラスなどの人たちに演奏され、1930年代から様々な録音がある。ガルシアのアイドルの一人ビル・モンローもブルーグラス・ボーイズで録音している。ガルシアのデッド以前からのレパートリィの1曲で、1962年の Hart Valley Drifters の録音がリリースされている。デッドとしては1966年03月12日ロサンゼルスで初演。1972年春のヨーロッパ・ツアーまで演奏され、その後、跳んで1989年07月02日、マサチューセッツでの演奏が最後。計25回演奏。なお〈Sittin' on Top of the World〉がデッドの録音での表記だが、'Sitting' と略さない形の表記も若干ある。デッド以外の録音では略さない方が一般的のようだ。
2. 1986 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
16ドル。開演8時。このヴェニュー5本連続のランの初日。この年最初のショウ。春節記念。かなり良いショウの由。(ゆ)
「少なくともヴァルザーの主要作品と目されてきたものは、ほぼすべて日本語に訳出されたことになるだろう」第5巻, 359pp.
スターリングラードでパウルスに対抗したチュイコフ将軍の第六二軍は、第八親衛軍として長い道のりをベルリンまで進軍した。チュイコフは占領軍の総司令官となる。彼はソヴィエト連邦元帥に昇りつめ、あの危機を迎えた九月の夜、ヴォルガ河畔で彼を任命したフルシチョフのもとで国防省代理にもなった。彼の命令によってスターリングラードで処刑された多数のソ連軍兵士には墓標のある墓はない。統計の上でも彼らは他の戦闘の死者に紛れこんでいる。そこには期せずしてある種の正義が存在すると言えるだろう。
His opponent at Stalingrad, General Chuikov, whose 62nd Army had followed the long road to Berlin as the 8th Guards Army, became commander of the occupation forces, a Marshal of the Soviet Union and deputy minister of defence under Khrushchev, who had appointed him on that September night of crisis by the Volga. The tousands of Soviet soldiers executed at Stalingrad on his orders never received a marked grave. As statistics, they were lost among the other battle casualties, which has a certain unintended justice.