クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:RPG

0301日・火

 Locus 3月号。ニュース欄に一通り目を通す。Media の欄に、Weis & Hickman による新ドラゴンランス三部作の一作目 Drangonlance: Dragons of Deceit Del Rey に売れた、とある。この件にからんで、ワイス&ヒックマンがこの企画を潰そうとした Wizards of the Coast を訴えたというニュースが一昨年暮れにやはり Locus に載っていた。続報は無かったが、こうしてアメリカの版元に売れたのなら、何らかの決着がついて、企画がゴーになったのだろう。さて、いつ本になるか。それを読めるまで世界があるか。



##本日のグレイトフル・デッド

 0301日には1968年から1992年まで5本のショウをしている。公式リリースは2本。うち完全版1本。


1. 1968 The Looking Glass, Walnut Creek, CA

 金曜日。ギグがあった、というだけでセット・リスト不明。Walnut Creek はバークレーの真東15キロほどにある町。


2. 1969 The Fillmore West, San Francisco, CA

 土曜日。このヴェニュー4日連続の3日目。《Fillmore West 1969: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。第二部オープナーの〈Dupree's Diamond Blues; Mountains Of The Moon〉が抜粋盤《Fillmore West 1969 (3CD)》に収録された。

 この第二部冒頭の2曲はアコースティック・セット。

 この時のバンドはトム・コンスタンティンが入って7人。歴代最多。そこでビル・グレアムの紹介はバンドを「七人の侍」に喩えている。

 第一部は〈That's It for the Other One〉から〈Cosmic Charlie〉まで4曲45分ノンストップ。第二部は80分近く。前日後半よりも形のある曲をそろえている。〈That's It for the Other One〉のジャムは原始デッドの最良のものの一つ。

 前日よりも整った演奏。〈Dark Star〉も終始フォームを保つ。今にも崩れそうになるぎりぎりを渡るようなスリルは少ないが、原始デッドの完成された姿が最も明瞭に現れている。

 クローザーの〈Turn On Your Lovelight〉までピグペンは影も見えないが、これと、何よりもアンコールの〈Hey Jude〉でリベンジしている。これはピグペンによる2度目の歌唱で、ピグペンはより自分に引きつけてうたっているし、後半リフレインでのガルシアのギターもすばらしく、これがレパートリィに入らなかったのは惜しいと思える。

 この4日間、やっている曲はほとんど同じ。やっていることもほぼ変わらない。曲順もそれほど大きくは変わらない。のに、どれも違う印象なのだ。4日間に4本聴いても飽きることがない。どこがどう違うか、明瞭に指摘できない。

 別の見方をしてみれば、《Live/Dead》はいわば架空の1本のショウを聴くように構成されている。同じく、この4日間の演奏を組合せて、《Live/Dead》の異ヴァージョンを組むことができよう。それもいくつも組める。そして、その各々が違った印象を与えるだろう。

 一方で、《Live/Dead》に現れたショウはあくまでも架空であって、この4本の完全版と比べてみると、どこか作為が感じられる。この4本にはそれぞれに有機的なつながりがあり、それぞれが自然発生的な「作品」になっている。《Live/Dead》はそれぞれの曲のベスト・ヴァージョンを並べたものでもない。

 もっともそこでもう1度見方を変えれば、当時、実際に生を見聞したければデッドのショウに行けばいいわけである。まだ後世ほどではないにしても、聴衆による録音とそのテープの交換も始まっている。《Live/Dead》をアルバム、商品として出す以上、ショウとそっくり同じものを出すのは意味がない。デッドのショウの象徴になるような架空の、ヴァーチャルなショウ、この時点でのデッドのショウのエッセンスを一通りくまなく体験できるものこそを出すべきではある。


3. 1970 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA

 日曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。2時間半の一本勝負。アンコールの1曲目〈Uncle John's Band〉が2014年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 この UJB は異様に遅い。こんな遅いテンポのヴァージョンは他には聴いたことがない。歌詞をひと言ずつ試すように歌う。サウンドもアコースティックに近づけ、ドラムスではなく、シェイカーだろうか。ギターはエレクトリックだが歌の間は終始アコースティックな音。その後のリフでいきなりエレクトリックなサウンドになり、ベースも大きく、ドラムスも入る。ガルシアがリフの変奏を展開してソロにする。前半の歌の部分では、崩れないぎりぎりの遅さに聞えるが、後半のエレクトリックの部分ではこれくらいゆっくりするのもなかなか良い。おそらくは、この頃はまだいろいろなテンポを実際に演奏して試し、適切なものを探っていたのだろう。


4. 1987 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 日曜日。17.5ドル。開演8時。マルディグラ祝賀3日連続のランの初日。

 第二部後半の〈Black Peter〉が良かったそうだ。そう、この歌は時々、妙に良くなる。これもまたユーモアの一種だろうか。


5. 1992 The Omni, Atlanta, GA

 日曜日。開演7時半。このヴェニュー3日連続のランの初日。(ゆ)


 安田さんからマーガレット・ワイス『レイストリン戦記』1・2をいただく。



 

 『ドラゴンランス』で最も人気のあるレイストリンの幼少期から青年期の入口の話。『戦記』の始まる直前の、例の「上位魔法の塔」での大審問の内容も明らかになる。『ドラゴンランス』のファンなら、まあ読まずにはいられまい。

 原書はワイスが単独で書いた Raistlin Chronicles の第1巻 The Soulforge, 1998 で、第2巻の Brothers In Arms, 1999 も続いて出るそうだ。

 『ドラゴンランス』の本篇、『戦記』『伝説』『魂の戦争』はマーガレット・ワイスとトレイシー・ヒックマンの共作だが、どちらかというとワイスの方が小説家の役割のようだ。ヒックマンはゲーム・デザインなどの仕事もしているが、ワイスはほぼ作家専業で、最近まで小説を出している。

 昨年年末にワイスとヒックマンが『ドラゴンランス』の版権所有者の Wizards of the Coast を訴えた、というニュースが Locus に出ていた。『ドラゴンランス』の新しい三部作をペンギンから出す企画が持ちあがり、WOTC の承認も得て、第一部の原稿を出版社に送ったところで、WOTC が突然承認を取り消し、企画を潰しにかかってきたので、堪忍袋の緒を切らしたものだ。ワイス&ヒックマン側の主張では、問題はこの新三部作そのものにあるのではなく、WOTC が他の方面で人種差別的言動をしたり、問題のある首切りをしたりして批難されたことに対する過剰反応のとばっちりを喰った、ということのようだ。その後、どうなったのか、続報は無いのだが、この2人が書く『ドラゴンランス』なら、誰しも読みたいところだろう。

 ワイス&ヒックマンは『ドラゴンランス』以外にもいろいろ書いていて、気になるものもいくつかあるが、『ドラゴンランス』そのものも、まだきちんと最後まで読んでいないので、なかなか取りかかれない。

 一方で、今年の春頃、急にムアコックのエルリックものが気になって、ゴランツ版を買いあつめた。先日の荷物整理でようやく、頭の方の巻が出てきて、あらためてニール・ゲイマンの緒言を読んでみると、The Jade Man's Eyes という中篇に触れている。これは The Sailor On The Seas Of Fate の原型になるそうで、ゴランツ版には入っていない。しかし、ゲイマンがここまで言うなら、原型といえども読んでみたくなる。実際、邦訳も別に出ている。

 ISFDB によると2008年に Del Rey/Ballantine から出た Chronicles Of The Last Emperor Of Melnibone というシリーズに入っている。さらにこのシリーズの第4巻 Duke Elric 第6巻 Swords And Roses の巻に入っているものの一部はゴランツ版に収録が無い。どうにも気になって、結局3冊とも注文してしまう。

 さて、しかし、心をおちつけて、エルリックものを読めるのはいつの日か。

 そう、レイストリンもエルリックの数多い子孫の1人、あるいはエルリックの転生した姿の一つではある。


##本日のグレイトフル・デッド

 1205日には1969年から1992年まで5本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1969 Fillmore West, San Francisco, CA

 4日連続2日目。約1時間半強の一本勝負。

 翌日のオルタモントのショウについて、ウィアやガルシアがコメントしていたそうな。


2. 1971 Felt Forum, Madison Square Garden, New York, NY

 4日連続2日目。アンコールを除いてFM放送された。

 〈Dark Star〉が「異様」、こんなのは他に無い、と Mike Dolgushkin DeadBase XI で書いている。これにはブートがあるので聴いてみると、12-01と同じく〈Me and My Uncle〉がはさみ込まれている。これも面白いが、その後のフリー・リズムのジャムがいい。とはいえ、この曲はいかようにもなるのだ、この曲でならどんなことが起きようとOKなのだ。ということを、あらためて思い知らされる。デッドはこの曲を演奏しながらデッドになっていった、というのがあたしの見立てだが、どんな実験も呑みこんで、面白いものにしてしまう懐の深さがこの曲にはある。しかもこの即興はジャズの即興とはまた違う。いわゆるフリー・ミュージックでもない。ロックの即興ではさらに無い。混沌とした中に、しなやかに、しぶとく、筋が通っている。長いジャムになる曲は他にもいくつもあるし、各々に面白いのだが、この曲の持つ「原初」の感覚、いつもことがそもそもの初めから新たに始まる感覚はユニークだ。


3. 1979 Uptown Theatre, Chicago, IL

 3日連続の最終日。第二部オープナー〈Shakedown Street〉が2019年の、4・5曲目〈He's Gone> The Other One〉が今年の《30 Days Of Dead》で各々リリースされた。どちらもすばらしい演奏。第二部がことさらに良かったらしい。


4. 1981 Market Square Arena, Indianapolis, IN

 開演8時。セット・リスト以外の他の情報無し。


5. 1992 Compton Terrace Amphitheatre, Chandler, AZ

 24.50ドル。開演午後2時。チャンドラーはフェニックス南東の郊外の街。DeadBase XI Sharon & Bill Weisman のレポートによれば、この日と翌日の2日とも良いショウだった。この日はウェルニクの両親が本人の後ろで見ていた由。前日金曜日はアメリカの西半分は嵐で、このカップルは土砂降りの雨の中、バーバンクを飛びたち、やはり土砂降りの雨の中、アリゾナに降りたっている。この頃になると、ある便の乗客の大部分がデッドヘッドということもありえた。フェニックスの空港は Phoenix Sky Harbor というシャレた名前がついている。デンバーから来た人びとは欠航と道路閉鎖で結局この日には間に合わなかった。(ゆ)


4月5日・月
 Grimdark Magazine の記事で The Forgotten Realms をどこから読むのがいいか、とあり、興味が湧く。R. A. Salvatore の Drizzt が最大のヒーローで、本もたくさん出ている。現在36冊。すべて Salvatore。昨年も新刊が出ている。こいつから読んでみるか。今はドリッズドの年齡順に『ダーク・エルフ』が第1シリーズで次が『アイスウィンド』になっている。邦訳はその次の Legacy of the Drow まで出ているらしい。ここまでで原書は10冊だから、全体の4分の3は未訳で、こいつはおいしい。安田さんだから既訳の部分は邦訳でもいいかな。をを、サルヴァトアの『フォーゴトン・レルム』でのもう一つの傑作と言われる 『クレリック・サーガ』も安田+笠井で出ているではないか。The Legends of Drizzt は調べると Apple Books が全部電子版を出していて、一番安い。安いのは楽天コボだが、ここのは PDF なので問題外。

 もう一人Elaine Cunningham という人がいい由。1991年の Elfshadow から2002年 Counselors & Kings まで、長篇11本に短篇が3本。『フォーゴトン・レルム』でドリッズドに次ぐ最大のシリーズ The Harper から出発して、独自のシリーズを書いている。この人は少なくとも長篇ではゲーム、映画のノヴェライズ専門のようで、2010年を最後に長篇は出ていない。時々、こういう書き手がいる。ノヴェライズでは抜群に質の高いものを書くが、オリジナル作品が無い。

 サルヴァトア、の方が原語に近いはずだが、かれはこの Forgotten Realms の書き手から出発して、独自の作品の書き手に「突破」していった。Demon Wars のシリーズは現在14冊で、ドリッズドものと並行して出ている。TSR とは縁を切るが、Wizards of the Coast が TSR を買収すると、また書いている。あるいは WOTC 側で他の作家とは別格の扱いを提示したのかもしれない。このおかげでドリッズドものの長篇1本がオクラ入りしてしまった別の書き手もいる。

 『ドラゴンランス』が今は一応終っているのに対し、『フォーゴトン・レルム』が続いているのはサルヴァトアのおかげもあるだろう。もっともワイス&ヒックマンが『ドラゴンランス』の新しい三部作をイギリスの版元から出す予定で、1作めの原稿も渡したというニュースもある。こちらは WOTC が突然理由も告げずに企画の破棄を通告したというので、ワイス&ヒックマンが訴訟を起こしたと昨年末に伝えられた。ワイス&ヒックマンによれば、企画の破棄は作品の出来とは無関係で、WOTC の他方面での不祥事のとばっちりを受けたらしい。もちろんワイス&ヒックマンも版元も WOTC の承認のもとに始めているわけで、そりゃ、怒るわなあ。(ゆ)


 安田さんが古希と聞いて愕然とした。が、何も驚くことはないわけだ。人は誰しも年をとる。むしろ、古希を迎えても、「楽しいのは、これからですよ」と言い切るポジティヴな姿勢にならいたい。年寄りがこう言うと、ともすればそれで自らを鼓舞しようという、どこか白々しい大言壮語に響くのだが、ここでの安田さんの言い方にはまるで無理がない。ごく自然に、心底そう思っていることが伝わってくる。実にいい年のとり方をしている。年寄りはすべからくこうありたい。そう、いろいろな意味で、今は転換の時期であり、ゲームに限らず、面白いものがどんどんと出てきているし、これからも出てくる。お楽しみはこれからなのだ。と、大いに励まされる。

 あたしはゲームには縁が無い。安田さんより5歳下の世代として、一通りはやっている。モノポリーは難しそうで手が出なかったが、バンカーズは友だちの家でやった。将棋、軍人将棋、五目ならべ、双六、野球盤、トランプ。花札は身近にやる人がいなかった。麻雀は大学に入ってから。しかし、どれも一通りで、のめり込むことはなかった。大学2年の時、周囲でトランプの「大貧民」が流行し、ヒマさえあれば、時には講義をさぼってもやっていたのがゲームというものに最も入れこんだ時だろう。

 ということで、本書の後半、ベストゲーム101はあたしには猫に小判である。不悪。

 一方、前半、安田さんの自伝は実に面白い。一番面白いところはまず金の使い方の巧さだ。たとえば45頁。ドイツの Funagain Games から大量にゲームを買った。あまりに量が多いので、あんたはいったい何者だと不審に思われる。ドイツのゲーム大会に行って、中古ゲームを山のように買う。日本へ送る送料だけで十数万。

 あるいは56頁。

 コロナで給付金がもらえたので、ここは時代が暗いから、パァーっと使おう。何に? ミステリーをこのところ趣味で読んでるから、論創ミステリーシリーズの残ってる100冊ほど買えば、それくらいになるんじゃないか。で、買っちゃうわけです。

 1960年代70年代のアメリカSFのペーパーバック・コレクションでは日本一ではないかと思うと、安田さんご本人から伺ったこともある。

 こうしたまとめ買いをすれば、中身は当然玉石混淆になる。そこから玉を拾いあげるのも楽しいが、それとは別に、ミソもクソもひっくるめた全体から見えてくるものがある。全部読めるはずもないが、読まなくても見える。ただし、それはとにかく全部を手許に置いてみなければ見えてこない。そして、そこで見えてくることが、実は玉だけを拾いあげるよりも大事なことなのだ。玉だけを見ていては見えないものの方に、一番のキモがある。ものごとの本質は玉よりも石ころの方により剥出しに現れる。あたしにこのことがわかるのは音楽の方面でたまたま同様の体験をしたからだが、それはまた別の話。

 もう一つ面白いのは、あるものが流行っては引き、流行っては引く、その繰返しと、安田さんがそれに対処し、次の波を呼ぶ努力をし、そして幸運に恵まれて次々と波を乗りこなしてゆく有様だ。幸運に恵まれたことは確かだが、幸運というのは努力をしている者にしか訪れない。別の言い方をすれば、努力をしていることで初めて幸運をモノにできる。

 流行に対して、わが国の出版社が一時にどっと集まり、去ったとみるとぱっと引くのも、本書ではからずも強調されていることだが、こういう「打って一丸となる」反応がいかに危ういか、わが国出版の現状にモロに現れているのではないか、と愚考する。先進国のみならずインドなども含め、出版がここ数十年、全体として売上を減らしているのはわが国だけだ。その原因はむろん単純であるはずもないけれど、何でも他人のやっているのと同じことをやらないと気がすまない性格は、少なくともその小さくない要因の一つではないか。他の何にも増して、出版という活動は多様性が大きいことにその生命がかかっているのだから。

 狭い国内の波の寄せ返しにばかりとらわれるのではなく、広く世界の動きに目を配り、他人のやらないことをやること、選択肢の幅を広くとることが、次の波を呼びこむための秘訣であることは、本書に描かれた安田さんの行動に明らかだ。

 今のところボードゲームの時代のように見えるが、これがずっと続くものでもあるまい。波は引いては返すとともに、満ちては退く潮つまり周期がある。一周回ってRPGがまた来るかもしれない。たいていは、もどってくる時にはまったく同じ姿ではなく、その間に現れたものと何らかの形で折衷している。コンピュータ・ゲームもますます盛んなようだし、新しいボードゲームとコンピュータの合体、たとえばARを使ったボードゲームも現れるだろう。いずれにしてもやはり好きこそものの上手なれ。好きなものにこだわるのがベストだ、と本書にはあらためて尻を叩かれる。

 好きなものにこだわる、というと、何か必死になってしがみつくようなイメージを抱かれるかもしれない。それはまったく反対のイメージであることは強調しておこう。実際には、好きなものにこだわるのは最も無理のない、自然なことである。あるいは、最も無理のない、自然なことをしていたら、こだわっていたことになった、と言うべきか。そうでなければ、どこかで無理をするならば、必ずうまくゆかなくなる。ただし、無理のない、自然なことをするのは必ずしも楽なことではない、というだけのことだ。時にそれは孤立したり、逆行したりするように見えることもある。それでも好きなものの呼ぶ声に素直に忠実に従うのは、生きてゆくことの醍醐味ではないか。

 もう一つ、ここには重要な教訓がある。少なくともあたしにとっては、あらためて肝に銘じるべき教訓がある。全体像を摑むのにコレクションの充実は必須だ。しかし本当にモノにするには、デターユに分け入らねばならない。すなわち、本は読んでナンボ、ゲームは遊んでナンボ、なのである。本書40頁、積んであったボードゲームの面白さにひっくり返るところ。時間がなくて遊べもしないゲームを買って積んでおくことも大事だが、やはり実際に遊んでみなければ、面白いことはわからない。読めもしない本を買って積んでおくことも大事だが、やはり実際に読まねばその面白さはわからない。

 折りしも、今、翻訳のファンタジーは売行不振のどん底にあるそうだ。これまた原因は単純ではないが、『ハリポタ』やGOTで我も我もとファンタジーに集まった反動という面も大きそうだ。しかし、あたしは今、ファンタジーに強く惹かれる。というよりも、読みたいと思う本がなぜかどれもファンタジーなのだ。もっとも科学は十分に発達すれば魔法と区別がつかなくなるというフリッツ・ライバーの言葉もある。SFはテクノロジーの装いを凝らしたファンタジーだ。サイエンス・フィクションが本当に面白くなるのは、科学の現在から飛躍するところだ。超光速飛行であり、時間旅行だ。どちらも科学からすれば不可能だからこそ、サイエンス・フィクションの最も強力で柔軟なツールになる。という議論はとりあえず脇に置いて、あたしはとにかく読みたい本、読んでくれとしきりに呼んでいる本を読むことに精を出そう。読んで面白ければ、報告もしよう。読まずには死ねない本は山のようにあり、日々増えつづけている。(ゆ)

安田均のゲーム紀行 1950-2020
安田 均
新紀元社
2020-12-12


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