クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:SF

 Spectrum 23 の最終候補が発表になっている。

 1993年に創設されたファンタジーを意図した絵画と彫刻を顕彰する賞。一昨年から Flesk Publications の John Fleskes が賞のディレクターとなった。選考は選考委員会による。受賞作は5月上旬の授賞式で発表。

 最終候補は
ADVERTISING
BOOK
COMIC
DIMENSIONAL
INSTITUTIONAL
UNPUBLISHED
の六つのカテゴリーで計40本。力作揃い。上記サイトはヴィジュアルが多い割に重くないので、ぜひご覧になるべし。


 Horror Writers Association がアラン・ムーアとジョージ・A・ロメロに生涯業績賞を授与すると発表している。授賞式はブラム・ストーカー賞と同じく5月中旬、ラスヴェガスでのストーカーコン。

 どちらも文字よりもヴィジュアルの分野で活動してきた人を小説家の団体が顕彰するのはおもしろい。


 ローカスはじめこれまで発表になった各賞の候補のどれにも入っていないものが4篇。

 独自のセレクションが9篇。

 クラーク、ストラハン、ドゾアの3冊に共通して収録されているのが4篇。
"Another Word for World", Ann Leckie
"Botanica Veneris: Thirteen Papercuts, Ida Countess Rathangan", Ian McDonald
"Calved", Sam J. Miller これはアシモフ誌読者賞の候補でもある。
"Capitalism in the 22nd Century", Geoff Ryman

 クラークとストラハンで重なるものが1篇。
"A Murmuration", Alastair Reynolds

 クラークとドゾアで重なるのが7篇。
"Gypsy", Carter Scholz 
"Bannerless", Carrie Vaughn
"No Placeholder for You, My Love", Nick Wolven
"Hello, Hello", Seanan McGuire
"Today I Am Paul", Martin L. Shoemaker これはネビュラの候補。
“Meshed", Rich Larson
“The Audience", Sean McMullen

 ストラハンとドゾアで重なるのが3本。
"City of Ash", Paolo Bacigalupi
"Emergence", Gwyneth Jones 
"The Game of Smash and Recovery", Kelly Link

 ストラハンでネビュラの候補と重なるものが4篇。
"The Pauper Prince and the Eucalyptus Jinn", Usman T. Malik 
‘Waters of Versailles", Kelly Robson
"The Deepwater Bride", Tamsyn Muir
"Hungry Daughters of Starving Mothers", Alyssa Wong これはブラム・ストーカー賞の候補でもある。

 ドゾアのベストでネビュラと重なるのは上記シューメイカーの1篇だけ。

 クラークのベスト収録作品でネビュラ候補と重なるのは
"Cat Pictures Please", Naomi Kritzer
“Damage", David D. Levine
の2篇。後者はローカスのリストにも入っていない。

 ヒューゴーの候補として考えられるのはまずこのあたりということになる。


 それにしてもこの Kelly Robson は注目だ。昨年初めて一気に5篇を発表し、そのうち1篇がネビュラの候補、ドゾアとクラークのベストに1篇ずつ収録。いずれもローカスの推薦リストにある。当然ジョン・W・キャンベル新人賞の候補にも入ってくるだろう。ウエブ・サイトの写真ではなかなかチャーミングな女性だが、ヘテロの人には残念ながら同性のパートナーがいるそうだ。そちらも新進のSFF作家。ともにカナダ出身。


 ヒューゴー長篇のノミネートをするために、ネビュラの候補にもなっているアン・レッキーの Imperial Radch 三部作の完結篇 ANCILLARY MERCY を読むために、第一部 ANCILLARY JUSTICE を読みはじめた。急がば廻れ。周知のようにこれはかつて巨大軍艦の AI だったものが ancillary と呼ばれる人間の肉体を使った分身のひとつに封じこめられた存在の一人称だが、語り手は人間をすべて女性代名詞で指す。そのうえで必要な場合には対象が male であることを明示する。これを邦訳ではどう処理しているのか、読みおわったら確認してみよう。

 この女性代名詞の件は公式サイトの FAQ でジェンダーの意味は含めていないと著者がことわっている。ラドチャアイ語ではジェンダーが無く、英語では有る。したがって英語に翻訳する場合には何らかのジェンダーを付けねばならない。とはいうものの、女性男性どちらでもよかったならばなぜ女性を選んだか、ということは残る。そこに必要以上の意味を読もうとするのは本筋から外れるかもしれないが、しかし英語で読む場合、女性代名詞が生む効果は無視できない。また、「元」の言語にジェンダーがないという設定によって英語ではジェンダーがあることが浮き彫りになる。

 日本語にもジェンダーは有る。当然ながら、英語におけるジェンダーの現れ方とは異なる。そこで女性キャラクターの台詞を邦訳する際のいわゆる「女ことば」の処理は翻訳者にとっては大問題だ。両性の台詞の言葉づかいを全く同じにすると、日本語の文章語としては不自然になることが多いのだ。

 そして語り手 Breq のジェンダーは自分にはおそらくわからないと著者は言う。それはこの物語にとっては重要ではなく、そして代名詞ではこちらを選んだために、はっきりさせる必要がなくなったからだ。というのが著者の回答。つまり、Breq のジェンダーがどちらであってもこの物語は成立する。ジェンダーが無いということもありうる。(ゆ)


叛逆航路 (創元SF文庫)
アン・レッキー
東京創元社
2015-11-21


アン・レッキー
東京創元社
2016-04-21



 英国の Kitschies の第6回の最終候補が発表になっている。受賞作発表は3月7日。選考は部門別の選考委員会。

 英国のゲーム、ウエブ・サイト開発会社がスポンサーの賞で、「スペキュラティヴで、ファンタジィの要素を含む、先進的で知的で面白い作品」に与えられる。小説、デビュー作、カヴァー・アート、デジタルの4つの部門。デジタル部門は電子本だけでなく、インタラクティヴ・フィクション、ゲームなども含む。

 小説のうちN・K・ジェミシンの THE FIFTH SEASON はネビュラ、Dave Hutchinson の EUROPE AT MIDNIGHT が英国SF作家協会賞の候補にもなっている。この2冊と Adam Roberts の THE THING ITSELF はローカスの推薦リストにも収録。また、デビュー作はすべて他のリストには無い。 

 賞の名前の "kitschy" は「キッチュ」から来ているのだろう。わざと古めかしい装いをまとった、浅薄で俗物的なものをさす。この場合はむろん逆説的用法。"bad" がすごく良いことであるのと同じ。


 オーストラリア国内で、またはオーストラリア市民によって発表された、人種、ジェンダー、セクシュアリティ、階級、障碍をテーマとする優れたスペキュラティヴ・フィクションに与えられる。主催はオーストラリア・サイエンス・フィクション財団(ASFF)。2010年、メルボルンの第68回世界SF大会 Aussiecon 4 で第1回の受賞作が発表・授与された。選考は選考委員会による。ASFF は1975年、オーストラリア初の世界SF大会 Aussiecon の運営のために設立された。受賞作発表は3月末のオーストラリアSF大会 Contact 2016。ディトマーと、サイエンス・フィクションでなみはずれた業績に与えられる A. Bertram Chandler Award と同時。ノーマ・キャスリン・ヘミング (1928-1960) はオーストラリアの女性SF作家のパイオニア的存在。

 7本の最終候補のうち2本が Aurealis の候補と重なる。1本はヤングアダルト長篇、もう1本は短篇。


 受賞作発表は5月17日の StokerCon。1987年創設で、主催は Horror Writers Association。対象は全世界で英語で発表されたもの。HWA の会員資格は国籍を問わない。ただ、ストーカー賞の対象は基本的に英語による作品。ノミネートは協会員の推薦と各部門別の推薦委員の推薦。ここから会員の投票により最終候補と受賞作が決まる。この賞は「最優秀作品 best」を選ぶのではなく、「すぐれた作品 superior」を選ぶとわざわざ断わっている。複数の受賞作が可能なようにルールを作っている由。

 ホラー、ダーク・ファンタジィの分野は専門の書き手が多く、媒体も別で、他のリストとはほとんどまったくといっていいほど重ならない。サイエンス・フィクションやダークではないとされるファンタジィでもホラーやダークな要素を重要なモチーフにしている作品はあるが、それとはどうも選ぶ基準が違うようでもある。例外的に Alyssa Wong の "Hungry Daughters of Starving Mothers” はネビュラの短篇部門最終候補に入り、ローカスの推薦リストにもある。また Stephen Jones 編 THE ART OF HORROR: An Illustrated History がローカスの推薦リストにある。

 なお、賞のノミネートの参考として推薦リストが発表されている。こちらにはサイエンス・フィクション、ファンタジィとして出ているものも含まれる。


 こうして並べてくると、前年の成果を確認・表彰する各賞の発表は3月から始まり、8月のヒューゴー賞発表はその締めくくり、総仕上げになるわけだ。(ゆ)

 Clarkesworld の編集長 Neil Clarke が選ぶ年刊傑作選の第1巻が今年7月に出る。その内容が Clarkeのサイトに発表されている

 収録作品は31本で、ローカスの推薦リストとの重複も多いが、重なっていないものが10本ある。

 これで年刊傑作選は、ドゾア、ストラハン、ホートンと合わせて4種、加えて、
BEST AMERICAN SCIENCE FICTION (Hill & Adams), 
BEST WEIRD FICTION (Koja & Kelly), 
WILDE STORIES 2015: Best Gay Speculative Fiction (Berman), 
BEST HORROR (Datlow), 
BEST DARK FANTASY & HORROR (Guran), 
BEST AUSTRALIAN FANTASY AND HORROR (Grzyb & Helene), 
FOCUS 2014: Highlights Of Australian Short Fiction (Wessely)
と周辺も含めれば少なくとも11種。史上最多ではないか。それだけこの種のものが売れるというのはわかる気もする。よほど熱心な読者でも、もう追いかけきれないからだ。


 試みに、ローカス推薦リスト収録作品発表媒体の上位5つ、Asimov's、Clarkesworld、F&SF、Lightspeed、Tor.com  に2015年1年間に発表された新作中短編はトータル293本(英語初訳も含む)。これ以外の雑誌、オリジナル・アンソロジーや個々の中短編集、ウエブ・サイト、ジャンル外の媒体もあるから、昨年1年間に英語で発表されたSFF関連の中短編はおそらく500本前後になるだろう。いかにネイティヴとて、これを全部読むなんてことはそれを仕事にでもしていないかぎり、よほどの精進が必要になる。オーストラリアにはとにかく「全部」読むという活動をしている集団があって、ジョナサン・ストラハンもその年刊傑作選収録作品選出にあたって協力をあおいでいるくらいだ。


 第50回ネビュラ賞の候補作が発表された。同時にドラマティック・プレゼンテーションを対象にしたレイ・ブラッドベリ賞、ヤングアダルト作品を対象にしたアンドレ・ノートン賞の候補も発表されている。受賞作発表は5月中旬のネビュラ賞週末。

 各部門の候補はアメリカSFF作家協会員(SFWA)のノミネーションと投票によって絞られ、6本の候補が挙げられるのが原則だが、長篇は7本。うちローカスの推薦リストにないものが3本。ノヴェレットで Asimov's 誌から3本入っているが、2本は Asimov's 読者賞の候補にもローカスの推薦リストにも入っていない。ローカスの推薦リストにないものは、ノヴェラで1本、ノヴェレットで3本、短篇で1本。また、アメリカ以外の英語圏からの作品は無い。ネビュラの対象は協会員の作品である必要はないが、アメリカ国内とインターネット上で発表されたものに限られる。アメリカ国外での作品もアメリカで出版されれば対象になるが、英国以外の英語圏で発表された作品のアメリカ版が出るのはまだ稀だ。その点では英語による発表であれば全世界が対象であるヒューゴーの方が範囲が広い。

 ローカスによれば、今年は初めて候補になる作家が多い。過去の受賞者は3人で、マイケル・ビショップが16回候補になって3回受賞、アン・レッキーが2回候補になって1回受賞、ケン・リウが8回候補になって1回受賞。未受賞者ではN・K・ジェミシンが4回め、ローレンス・M・ショエンが3回め。次の波が来ているということか。

 ビショップは近年、ほとんど作品を発表していなかったので、復活は嬉しい。(ゆ)

 George R. R. Martin が昨年末、『氷と炎の歌』A Song of Ice and Fire の第6巻 THE WINDS OF WINTER の原稿を年末の締切に間に合わせることができなかったと謝罪した。春から放映が始まるテレビ・ドラマ版 Game of Thrones のシーズン6がこの第6巻をもとにしているため、版元としてはドラマ開始前に本を出そうとし、マーティンもそれに間に合わせることを約束していたからだ。締切は当初、昨年のハロウィーンに設定されたが守れず、年末まで延長されたが、やはり守れなかった。

 というのは本とドラマと両方を楽しんでいるファン以外にはどうでもいいことではあるが、より一般的な興味を惹かれるのが、年末原稿締切で3月までに本が出せるのか、ということである。わが国ならなんでもないが、アメリカでこんなことは普通ありえない。しかしそれが可能だと版元からは約束されたとマーティンは書いている。ではそれはいかにして可能かということを、Tor の制作部長 Chris Lough が Tor.com に書いている。ロウは Tor.com のブログの執筆者でもあって、頻繁に面白い記事を寄稿しているが、この記事は質量ともに最高のものだ。

 というのもこの記事は原稿完成から刊行まで3ヶ月でどうやるかということを述べながら、アメリカの小説出版の実際のプロセスを詳細に説明してくれているからだ。長さも10,000語超で、邦訳すれば400字詰原稿用紙100枚を超える。断片的にはあたしも承知していたが、これだけまとまったものは初めて目にする。読者のコメントを見るとアメリカでも無かったらしい。多少とも出版に関わっている人には、自分も含めて興味津々の記事なので、内容をかいつまんで紹介しよう。

 なお、ここに書かれていることは原稿が入ってから本になって出荷されるまでのプロセスだ。原稿そのものの完成への過程、また作品の取得はまた別の話。

 またこれは小説やそれに準じるノンフィクションなどのリニアな本のケースだ。ヴィジュアルの要素、写真や絵、図版の多いもの、辞典などのリファレンス、マニュアルなどは当然変わってくる。なお、ノンフィクションの場合、索引作成が加わる。英語圏のノンフィクションやエッセイ集では索引が無いほうが例外だ。

 さてロウは全体を六つのパートに分ける。

1 編集
2 表紙
3 マーケティングと宣伝
4 営業
5 組版
6 印刷と配本

1 編集
 編集は入った原稿を読み、点検し、改訂して完成させるブロセスなのは、洋の東西を問わない。ロウはここを以下の6つに分ける。

first read
Structural edits
line edit
copy edits
First Pass
Advanced Reading Copies (ARCs)

first read
 何はともあれ、完成した原稿は担当編集者によって読まれなければならない。むろん、単に読者として読むのとは異なる。たいていの編集者はメモをとりながら読むだろう。また、集中する必要もあるから、まとまった時間をとる、あるいはとれる形で読むだろう。まあ、たいていは「5時以降」でしょうね。喫茶店とかに逃げる人もいますね。で、first read を終えると編集者はメモをもとに改訂を著者に提案する。そこで次の段階だ。

Structural edits
 ここで提案されるのは大幅な改訂で、キャラクターの配置転換や合体分離、舞台設定の適正化、ときにはアーサー・ウィーズリーを殺さない変更などもある。シリーズもので巻数が重なってくると、既刊の内容を読んでいることを前提にした部分があまりに多くなりすぎることを防ぐ、なんてこともある。

 改訂に応じるかどうかは著者次第だが、賢明な著者は信頼している編集者からの提案は受け入れるものだ。著者の改訂には当然時間がかかる。3ヶ月というのが目安。これでできあがった原稿に編集者がOKとなれば、ここで原稿は出版社に正式に「受取られる」ことになる。

line edit
 次の段階は一行ごと、センテンスごとの点検、検討、改訂である。単純な誤字脱字の訂正、似たような語彙の使用を避ける、繰り返しの削除などから、会話の調子を前後の章と同じにする、ということもありえる。一語変更するだけで、シリーズ全体を支える謎に回答が出てしまうこともある。これに普通2ヶ月はかかる。

copy edits
 これは時に専門の編集者に任されることもある。文法やスペル・ミスのチェック、文章のつながり、事実関係、論理関係などの点検だ。内容や文体には踏みこまない。シリーズものだと、同じ担当者がずっとやるのが理想。これにだいたいひと月。

 これらのプロセスを経てできあがるのが First Pass と呼ばれる本文だ。名称は出版社によって多少異なる。これは Tor での呼び名だ。ここから Advanced Reading Copies (ARCs) が作られる。本文を印刷したものを製本し、簡単な紙の表紙をつけたもので、各メディアの書評担当、大手書店のバイヤー、推薦のことばを頼む作家、海外のエージェントや出版社の翻訳書担当などに送られる。時には著者がサインしてチャリティ用などに売られたり、読者サービスに使われたりもする。わが国でも時々作られるようになりましたな。原稿が入ってからここまでで普通半年。

 作家にとって良い編集者と組めることは作家としての大成や成功には不可欠と言っていいだろう。編集者との作業がうまくいかないで、良い作品は生まれないし、売れることはもっと無い。では、作家にとって理想の編集者とはどういう編集者か。マーティン自身が1979年の Coastcon II でおこなった講演からロウは引用している。

 いい編集者はどんな編集者か。いい編集者はまっとうなアドヴァンスを払ってくれて、本がきちんとプロモーションされるように社内で立ち回ってくれて、電話をちゃんとかけ返し、手紙には返事をくれる、そういう編集者だ。いい編集者は作家と共同で本を作る。ただし、必要がある時とところでだけだ。いい編集者は作家がめざしていることを把握し、そこに近づけるように作家を助ける。なにかまるで別のものに本を変えようなんてことはしない。いい編集者は自説を曲げないとか、許可なしに変更するなんてことはしない。作家はその言葉に命がかかっている。作品に対して誠実を貫くには、作品に対する最終的な決定権は作家がもたなくてはならない。


 加えて、このブログのコメントでマーティンの担当編集者だとおもうが、Adam Whitehead がマーティンの執筆スタイルについて書いている。それによると、マーティンは1冊の本を頭からリニアに書いているのではない。キャラクターごとにまとめて書く。あるキャラクターについてひとまとまり書くと、別のキャラクターについて書く。そうしてできた原稿を編集者とやりとりしながら再構成して完成してゆく、という(実際はもっと複雑)。これはむしろ映画やテレビ・ドラマの作り方に近い。映画や長いドラマなどでは、俳優のスケジュールなどによって、撮れるところから撮ってゆく。できた長短様々なシーンを編集して1本にする。マーティンは上記の講演をした後、一時小説がまったく売れなくなり、ハリウッドで仕事をしていた。おそらくそこで身につけたのだろう。こういうやり方だと、あとどれくらいで完成とはなかなか言えない。


2 表紙
 これはわが国のものとほとんど変わらない。関わる人間の数が、アメリカでは増えるくらいだ。版元のアート・ディレクター、編集部、営業部、マーケティング部のそれぞれ担当者、画家、写真家などのアーティスト、装幀あるいは本全体のデザイナー。これらの関係者が打合せ、ラフ・スケッチからいくつかの工程を経て最終候補を絞り見本をつくって決定する。わが国と一番違うのは、アメリカではカヴァーの決定に本屋も発言権を持っていることだ。時には最後の段階で書店からの反対で全部ひっくり返り、はじめからやりなおしということもあるそうな。

 アーティストにもいろいろいるが、まともな人は原稿をちゃんと全部読んでから仕事をする。長い作品になると原稿を読むだけで時間がかかる。ここで実例が出ているのは Tor の看板作品の1つ、ブランドン・サンダースンの「ストームライト・アーカイヴ」シリーズ第1巻 WAY OF THE KINGS 『王たちの道』の表紙絵を描いたマイケル・ウィーラン。この原書の表紙は作品内のあるシーンの描写ではなく、作品世界全体のモチーフを表現している。当然全部読まなければできない。これを作ってゆく過程をウィーラン自身が Tor.com のブログに書いている。それによれば、初めに原稿が送られてきた時はその長さにげっそりしたそうだ。

 なかには、おめーらなーんも考えてねーだろ、といいたくなる表紙もあるが、SFやファンタジィでの表紙にはしっかり作ってあるものが多いし、表紙の絵を発表することはプロモーションの基本の一部だ。それは本屋やサイトでその絵を見たときに思い出してもらうためでもあるが、作品世界を端的に伝える有力な方法でもある。「SFは絵だよ」という故野田大元帥の言葉の通り、実際表紙を見ただけで、中身がわからなくても買いたくなる本は少なくない

 先日もオーストラリア在住の Lian Hearne の新作 Tale of Shikanoko のカヴァーが発表された、と Tor のブログに出ていた。断っておくがこれの版元は Tor ではない Farrar, Strauss & Giroux である。ジェフ・ヴァンダーミーアの AREA X 三部作の版元だ。アメリカ版のジャケットの絵はニューヨーク在住の清水裕子によるもの。日本画の伝統技法に乗っ取りながらダイナミックな構図が楽しい。


 さて、多少とも出版を知っている人はすぐにわかるだろうが、わが国のものとまるで違うのが3のマーケティングと宣伝だ。もちろんマーティン作品のような超ビッグ・タイトルについては、今ならわが国でも大手版元は多少ともマーケティングを行っているだろうが、アメリカのようにマーケティングの独立部門があり、専門スタッフが仕事をすることはあったとしてもごく稀だろう。営業部、宣伝部などの一部が担当するか、あるいは編集者の仕事になっているのが一番多い。大手出版社で宣伝部というのは、自社製品の宣伝つまり出広よりも、雑誌に入れる広告を扱う入広が主な仕事だ。

 マーケティングとは何をするものか、というのはロウも書いているように、まことに多岐にわたる、細かい仕事の積み重ねだ。マーケティングの本場アメリカでも、それがどういう仕事か、簡単には掴めないらしい。それにマーケティングが最も成功した時には、あたかもマーケティングがされなかったように見える。超自然的なまでに成功すれば、口コミだけである作家のデビュー作品が売れてゆく。

 実際のマーケティング担当の仕事が列挙されている。ブロガーに ARC を発送したかと思うと、その次には大金をかけた全国規模の宣伝のアートワークを決め、終ると次に営業と組んで可能性のありそうな販売ルート、たとえば Victoria's Secret に "Epic Fantasy Lovemaking" の本を下着とセットにして売る提案をする。さらに、通常の販売対象には入っていない市場調査をする。YouTube にアップするトレイラーの作成、アメリカ全土の放送局にばらまくための著者のインタヴュー映像と録音のパッケージの制作と配布の手配もその仕事だ。放送局ではこうして送られてくるパッケージを適当に編集して、番組にはさみこむ。

 マーケティング担当はまた、Amazon など大手書店チェーンの広報担当、The New York Times 書評欄の担当者や常連執筆者とのコネもつくらねばならない。こうした面では PR つまり Public Relations の仕事もする。

 あえてマーケティングの肝はといえば、想定される読者に本の刊行を知らせ、またその本を買う可能性、潜在性のある読者に本の存在を知らせる、つまり新規市場の開拓にある。新人のデビュー作ならば、その存在とウリをできるだけ広く知ってもらうよう努力する。マーティンのような多数の読者が待ち望んでいるタイトルであっても、そのリリースを知らせ、新たな需要を喚起しなければならない。

 マーケティングの仕事にはもう一つの要素がある。対象の出版物をアピールする際の競争相手は他の出版社ではない。そうではなくて、他のメディアだ。テレビや映画や音楽やゲームやスポーツや食事や旅行やSNSやネット・サーフィンや、その他新旧様々の選択肢のなかから、他のものではなく、本を選んでもらわねばならない。他のメディアには無い魅力があること、他では体験できない面白い体験ができると納得させ、買ってもらわねばならない。LOST やフットボール、バスケット、野球の試合を見たり、LINE でおしゃべりしたり、ハンググライダーでエンパイア・ステート・ビルのてっぺんから飛んだり、マインクラフトでミナス・ティリスを築いたり、フィッシュのコンサートに行って踊りまくったり、Call of Duty で敵をやっつけたり、改造マウンテン・バイクでスコットランドの無人島を駆けめぐったりするよりも、この本を読む方が面白い、と思ってもらわねばならない。アメリカの版元のマーケティング担当者の夢は、スーパーボウルの当日に観戦者と同じ数の人間が、試合ではなく、自分がプッシュした本を夢中になって読んでいる、という姿を見ることだろう。

 本が他のメディアと一番異なるのは読書には読者の積極的な関与が必要なことだ。電子ブック・リーダーを使うにしても、映しだされる文章を読み、ページを繰る作業はしなければならない。さらに読んで楽しむには、そこで想像力を働かせなければならない。テレビや画面の前にすわって目と耳を開いていれば、話が流れこんでくるわけではないのだ。

 だから本こそはマーケティングが他よりも必要なのだ。

 一方でこうしたマーケティングが幅を利かせることが必ずしも良いことばかりでないのは、いろいろな意味で当然だ。作品やそれを生み出したクリエイターを売り込むために整えられたものが「虚像」として独り歩きしてしまうこともある。また、あまりに整えられすぎて、とても本物とは思えなくなってしまうこともある。まったく欠陥のない、ぴかぴかつるつるのイメージが、狙ったものとは正反対の効果を生むこともある。


 4の営業は、アメリカとわが国では書籍流通の方式や経路が違うから、当然仕事の内容も異なる。いわゆる取次営業はアメリカでは存在しない。アメリカでは書籍商は仕入れるタイトルと数を年2、3回、まとめて決定するので、まずそれへの対応がある。わが国でいう、いわゆる新刊配本、つまり出る本は自動的に一定の部数が送られてくることは無い。本屋が仕入れると決めたタイトルが注文した数だけ来る。

 つまり本屋がある本をいくつ仕入れると決定する時には、本自体はまだできていないのが普通だ。小説の場合、表紙の原案とおおまかなストーリーとセールス・ポイントがあるくらい。実際の原稿は著者の頭の中だけ、ということもありうる。

 ここでロウは本屋が売れ残ったものは自由に返品できると書いている。この点は完全フリーではないのではないかとも思うが、あたしにはわからない。あるいは返品数は次の注文への対応に反映される形で制約を受けるのかもしれない。つまり、返品が多ければ、次に注文する際、希望する数を仕入れることができなくなる形。

 いずれにしても何をいくつ仕入れるかに、アメリカの本屋の商売はかかっているわけで、Amazon や Barnes & Noble のような大手は専門のバイヤーがジャンル別にいるのが普通だ。
 
 ジャンルというのはそもそも本屋側の要請でできていて、本にも印刷されている。本屋は厳密にこれにしたがって陳列出品する。ネット上なら、ジャンル別検索のインデックスになる。ある小説作品を science fiction で出すか、fantasy で出すか、thriller で出すか、あるいは fiction で出すかの決定は本の売行に直結する。だから、どこにも属さないような作品は出版を敬遠されたりする。一方でジャンルを明確にすることで、新人のデビューはやりやすくなる。各ジャンルには専門の定期刊行物があり、サイトがあり、書評家がいて、賞も設けられているから、新人の出現には敏感だ。SFFの世界ではコンヴェンションつまりプロアマファンの交流会も盛んだ。商売ではなく、作品から見たジャンルはまた別の話になる。


5 組版
 基本的には日本語と同じ。もちろんわが国では縦組特有の作業が加わるが、書体、字間・行間・余白、紙、印字カラー、総頁数といった要素を選定し、設定し、勘案して決めてゆく。総頁数から他のものが来まる場合もある。昔は500頁を超える本は作るのが大変で、とりわけペーパーバックでは頁数を抑えるために小さな文字をぎっしり詰めていた。その後、製本技術、特に束ねた紙の背中とカヴァーを貼り付ける糊の進歩で、1,000頁の本も珍しくなくなった。おかげで長篇は長くなる一方だ。

 本屋や出版の内幕暴露本として有名な『暴れん坊本屋さん』を読んだ人はご存知のはずだが、ページ数は8の倍数というのも、洋の東西を問わない。というか、これは明治に西洋風の本が導入された時に一緒に入ってきた。

 

 組みあがったものはまず少数印刷製本されて、外部のリーダーに送られることもある。第三者の目でもう一度点検してもらうわけだ。ここで大きな変更が起きることはまずないが、細かい誤字脱字、前後の話のつながりなどが訂正されるのは普通だ。こうして外部の点検も経て Second Pass ができる。ここまでくると、万一改訂が必要になると、ページ数を変更しないようにしなくてはならない。もし半ページ分削除したければ、その分を何らかの形で書き足さなければならない。ファンタジィでは無くてはならない地図、各章の冒頭に入れるカットなどの付属物もここでまとめられる。できあがったものに担当編集がOKを出すと、制作担当はファイルを印刷所に送る。これ以後、重版が出るまでは本に修正はできない。


6 印刷と配本
 印刷は基本的には日本語と変わらない。現代の印刷機はモノクロの場合、1時間で16ページ分を22マイル=35,400メートル印刷できる。つまり1時間36万ページのスピードだ。この印刷機が50台あれば、1,000ページの本36万部を24時間で印刷できる。むろんこれは理想値で、紙を供給するスピード、製本、品質点検、箱詰めなどで実際には遙かにずっと時間がかかる。たいていの印刷会社は製本もする。

 本文とは別にジャケットの印刷が進められる。別の専門印刷会社でおこなわれることも少なくない。その場合はできたジャケットが製本所または製本をおこなう印刷会社に送られ、製本とジャケット掛け、品質点検、箱詰めが行われる。そして出荷となる。

 ここから先はわが国とは異なる。アメリカには東日販のような大手取次はないから、できあがった本はまず出版社の倉庫に入り、そこから各地方の配本会社の倉庫へ出荷される。マーティンのようなベストセラーが確実なものは発売日を合わせるため、遠方の分から出荷される。アメリカでは本は火曜日に発売される。特別なものは月曜から火曜に日付が変わる真夜中に発売ということもある。先日もブランドン・サンダースンが新作 THE  OF MOURNING の発売記念パーティを母校 Brigham Young University 内にある本屋で真夜中にやっていた。

 


 なおマーティンの A Song of Ice and Fire の版元は Bantam Books で、Tor ではない。ファンタジィやサイエンス・フィクションならば他社の本でも積極的にとりあげるところが Tor.com の懐の広いところだ。

 Bantam はペンギン・ランダムハウス傘下で、Tor はマクミラン帝国の一角を占める。Tor は Tom Doherty Associates のブランドで、サイエンス・フィクション、ファンタジィ、ホラーの版元として現在世界最大。なお、英語圏の大手出版社は Big Five と呼ばれ、Simon & Schuster、Penguin Random House、HarperCollins、Macmillan、Hachette。現在世界で出版される本では圧倒的に英語のものが多いから、このビッグ5は世界最大の出版社でもある。これらの下に imprint と呼ばれるブランドまたは子会社があり、普通本の表に出ている版元の名前はインプリントが多い。

 わが国では原稿が渡されてから3ヶ月で本になるのは、マーティンの本のような最優先タイトルだったらまあ普通だろう。あわただしくはあるが、異常事態ではない。もう四半世紀前になるが、宮仕えしていた時、ある小説が原稿完成から3週間で本になったのを目撃した。さすがにこれは異常事態ではありましたがね。いや、ありがたいことに、担当ではありませんでしたよ。

 マーティンはまだまだ書くことはたくさんあり、何ヶ月もかかる、と言う。こうなれば、原稿が入りさえすれば3ヶ月で出るのだろうが、さてはたして今年中に第6巻は出るだろうか。マーティンもそう若くはない。いつ何が起きてもおかしくない。あの体型は血管系の発作を起こしやすいように見える。現在のところ『氷と火の歌』は全7巻予定とされている。(ゆ)


 ジョージ・R・R・マーティンがそのブログ Not A Blog でやはりローカスの推薦作品リストをとりあげている

 そうそう、マーティンも指摘している通り、ローカスのリストから漏れた優れた作品はまだまだあるはずだ。

 ところで今年のヒューゴーについて昨年末来、いろいろ書いている。

 昨年は Puppygate でヒューゴーは大揺れに揺れ、結果「受賞作なし」が続出したわけだが、長篇賞は中国の劉慈欣『三体』の英訳(翻訳は Ken Liu)が受賞し、一方、Sad Puppy が送りこんだ候補作はすべて最下位かそれに近い形で落選して、かれらの意図はみごとに裏切られる結果となった。マーティンはワールドコンの会場で「ヒューゴー落選者パーティー」を開いて、意地を示した。

 Sad Puppy は今回も従来通り、ヒューゴーの投票を仲間うちの集団投票で乗っ取る意志を表明しているが、マーティンによればどうやら様相がいささか変わっている

 Sad Puppy はごく狭い価値観の上に書かれた作品群を候補作に送りこみ、引いては受賞させることを狙っているわけだが、かれらのウエブ・サイト上にはおそろしく広い範囲の価値観を代表する作品が候補の候補として上げられ、これまでのような誹謗中傷や罵詈雑言は影を潜めて、それらの作品について真剣で活発な議論が行われている。俎上に載せられた作品の中には、Puppy たちがもともとヒューゴーから排除しようとした傾向の作品も多数含まれている。とすれば、昨年の二の舞になる可能性は低くなるのではないか。

 そしてマーティンはヒューゴーのノミネートに参加することを薦める。それにはワールドコンのメンバーになる必要があるが、来年のヘルシンキ大会の会員にもノミネート権はある。そしてできれば今年の大会のメンバーになって投票しよう、と呼びかける。それも自分の意見として、誰か他人の指示に従って投票するのではなく、自らの判断のもとに投票しよう、と呼びかける。

 つまり、サイエンス・フィクション、ファンタジィ、そしてそのファンダムの健康にとっては多様性の確保、できるだけ幅の広い、奥の深い多様性を確保拡大してゆくことが何より重要である、という認識だ。サイエンス・フィクションという現象が多様性の確保拡大への志向から生まれていることの確認でもある。そして現行のモダン・ファンタジィは、サイエンス・フィクションを生んだ幻想文学からよりも、サイエンス・フィクションから枝分かれしたものではある。

 ここで興味深いのは、Sad Puppy への対策として、これを隔離し、排除しようとはしないことだ。それでは Sad Puppy と同じことをやることになる。逆にそこでの議論に積極的に参加し、具体的な作品の推薦や議論を通じて、かれらが当初意図したことを換骨奪胎してしまおうという動きが見える。いやそれは言いすぎかもしれない。換骨奪胎することは二次的な結果であって、そういう結果が生まれることを期待はしても、第1の目的にはしていない。第1の目的は議論すること、議論を通じて相手の認識を変えようということだ。価値観の合わない人間たちは排除するという Sad Puppy の行為の根源にある認識を変えようとする。狭い視野と認識に閉じこもるよりもより多様な様々な価値観が共存する方がおもしろいではないか、と提案し、その認識の共有をめざす。すべてのサイエンス・フィクションに通底する主張ないし目的があるとすれば、それは多種多様な、時には異様なまでに異なった価値観が共存することのおもしろさを示すことである。

 もっとも言わせてもらえば、それはすべての芸術、サイエンス・フィクションのみならず、文学のみならず、およそ芸術活動とされるすべての行為の根源的な目的ではある。サイエンス・フィクションはその提示、多様性を生みだす契機として現代の科学とテクノロジーを利用する。そこがあたしにとっては他の芸術活動よりもより身近に切実に感じられ、したがっておもしろい。


 そうしてマーティンは自分もヒューゴーを受賞する価値があると考える作品をあげている。かれはこれらの作品をノミネートしようと言ってはいない。これらがノミネートに値するかどうか、確認するだけの価値はある、と言う。それが推薦作品リストのあるべき姿であり、ローカスのリストはそのお手本とも言う。これまでのところ Best Editor: Long Form, Dramatic Presentation の Long Form と Short Form、Graphic Story、Related Works、それに Professional Artists について書いている。その余白に2冊の長篇を挙げている。

NEMESIS GAMES, James S. A. Corey
SEVENEVES, Neal Stephenson

 James S. A. Corey は Daniel Abraham と Ty Franck のデュオのペンネームで、この作品は Expanse シリーズの5冊め。うわ、また読まねばならぬシリーズが増えたぞ。シリーズ第1作 LEVIATHAN WAKES, 2011 はヒューゴーにノミネートされ、ローカス賞ではベストSFの第5位。『巨獣めざめる』として中原尚哉訳が出ている。第2作 CALIBAN'S WAR はローカスで第5位、第3作 ABADDON'S GATE はローカス・ベストSF賞受賞、第4作 CIBOLA BURN はローカス第8位、といずれも好評だが、ヒューゴーにはこれまで縁が無い。

 Neal Stephenson の方は17冊めの長篇。スティーヴンスンはこれまで3冊邦訳があるが、今世紀に入ってからのものは邦訳されていない。

 関連書籍も2冊。
 
THE WHEEL OF TIME COMPANION, ed. by Harriet McDougal, Alan Romanczuk, and Maria Simons
YOU'RE NEVER WEIRD ON THE INTERNET (Almost), A Memoir, by Felicia Day

 フェリシア・デイの回想録はまあまず邦訳は出ないだろう。36歳で回想録、というのもちょと早すぎるような気もするが、ひょっとして10年ごとくらいに何冊も書くつもりかも。

 『「時の車輪」コンパニオン』も邦訳はおそらく出ない。当然のことながらネタバレのオンパレードだから、これはあのシリーズのファンのためのもので、それも全部読んだ人のためのもので、さらに何度も読んでいる人のためのものだ。まったく本篇を読んだことのない人間には、あるいは少なくとも半分くらいまでは読んでいないと、これは役には立たないだろう。その代わり、熱心なファンにはこたえられまい。本篇では明らかにされていない、あるいは曖昧なままになっていることなども、ジョーダンのノートなどからかなり詳しく書かれてもいるらしい。

 最新の記事では Best Editor: Long Form をとりあげる。これは編集者の中で書籍、長篇の編集者が対象だ。Short Form が雑誌編集者になる。

 編集者は表に出ない。わが国でも近年は編集担当を奥付に明記する本も増えているが、まだまだ黒子としての存在であることが本分とされる。編集者として評価されるのは例外的な存在だ。アメリカでも事情は同じで、Tor が本に担当編集者の名前を付けだしたのも、ここ2、3年だ。そこで一部の有名人に投票が集中することになり、ヒューゴーの中でもこの部門は前身も含め、同一人物の連続または複数受賞が多い。現在のような区分になり、書籍編集者が受賞しはじめると、他の部門にはない慣行ができる。受賞が2、3回重なると、それ以後、候補にあげられることを永久に辞退する。これは初期の受賞者であるデヴィッド・G・ハートウェルが始めたが、それ以後の受賞者たちにも受け継がれている。この部門は一種の功労賞になっているわけだ。普段あまり評価されることのないところで重要な仕事をしている人たちなのだから、照明があたるチャンスをなるべく大勢の人びとに拡げたい、というのはわかる。

 ところが、昨年は Puppygate のあおりを食って、この部門は「受賞者なし」になった。マーティンに言わせれば、この部門の昨年の候補者はいずれも受賞に値する人たちだったから、これはいささか「不当」な扱いになる。今年はしっかり候補を見定めて、投票すべきはちゃんと投票しよう、と呼びかける。

 こういう部門、とりわけ編集者はマーティンのようなプロでないとわかりづらい。Locus の消息欄を丁寧に追いかけていれば名前や所属は多少ともわかるだろうが、普段の仕事ぶり、誰を担当し、何を編集しているかまではなかなかわからない。ここで名前のあがっている人たちには、今後とも注目しよう。

 その他の部門についてはそれぞれの記事を参照。




 ローカスの2015推薦リストが出てしまった。別に出てしまって悪いわけじゃない。むしろ、これだけ早く出してもらえるのはありがたい。
 
 これは同時に始まったローカス賞の投票の参考用ではあるが、ローカス周辺や業界の読み手たちによる推薦だから、好みに合う合わないはあってもまったくの大外れは無いはずだ。ヒューゴーのノミネートにしても、このあたりから手をつけるのがまずは妥当だろう。

 自分でちゃんと読んでいて、このリストにも即座にケチをつけられるくらいであるのが理想であるわけだが、第2言語で書かれたものをそんなにたくさんは読んでいられない。第1言語で書かれたものだって、そうそうは読めないのだ。ジョー・ウォルトンは家でベッドに入ったまま他に何もしないときには1日で4、5冊かたづけるそうだが、あたしにはそんな芸当は不可能だ。だいたい本ばかり読んでもいられない。音楽も聴かねばならないし、ライヴにも出かけなければならない。しっかしまあ、みごとに一つも読んでいないぞ。まあ、去年はとにかくグレイトフル・デッドに明け、グレイトフル・デッドに暮れていたし、このところ旧作ばかり読んでいるから当然の結果ではあるわけで、今年はその逆をいってみようというのが後からとってつけた意図ではある。

 だから、こういうリストを参考に、今年前半は昨年の収獲を消化、消費ではない、消化することに努めよう。もっともアンソロジーの中の年刊傑作選はいずれも一昨年の作品を収録しているから、これらを読めば2年分の上澄みは味わえる。そう言えばこの選考者の中には年刊傑作選の編者もドゾアとホートンとストラハンと3人も入っている。

 個人的にはノンフィクションの部門に関心がいくのはやはり年のせいか。とりわけイリノイ大学出版局が出しているサイエンス・フィクション作家のモノグラフ・シリーズは全部読んでみたい。こんなのが出ているのも今回知って、ジョン・ブラナーは注文してしまった。これは昨年のではない。2013年刊行だ。こういう旧作を見つけてしまうのも困ったものだ。

 LETTER TO TIPTREE はキンドル版が安かったので買ってしまった。しかし、これはよくぞ作ってくれたものだ。あたしとしては第二部のル・グィンとラスとの往復書簡が一番関心があるが、第一部も面白い試みだ。わが国の作家たちの書簡集も出してほしい。『SFの国』展で展示されていた半村良から小松左京への書簡を読むと切実に思う。

 さあて、まずは中短編の手許にあるやつからかな。(ゆ)



 

 2016年のワールドコン MidAmeriCon II @ Kansas City, MO の Supporting Member に登録する。50USD。

 なぜこの年になって生まれて初めてコンヴェンションに関係する気になったかというと、01/31までにサポーティング・メンバーになるとヒューゴーの候補作をそれ自体は買わずに読めるらしいからだ。サポーティング・メンバーはヒューゴーの投票権があり、候補作が版元から電子版で送られてくるそうな。長篇は全部ではないらしいが、50ドルで15本以上の作品が読めるならお釣りが来る。これを教えられたのはブランドン・サンダースンのブログだ。

 これまでもヒューゴー、ネビュラの最終候補作を読んでみようとしたことはあったが、長篇はともかく、中短編は結構集めるのが大変だったりして、結局完全制覇したことは一度もない。

 たとえ送られてこなくても、ノミネートと投票の権利はできたから、インセンティヴにはなると期待。

 今年は年頭からジーン・ウルフにはまったり、パトリシア・A・マッキリップを「発見」したりして、昨年以上に小説が読めそうだ、ということもある。

 さあて、ノミネーションの締切が3月末日。それから投票まで4ヶ月でどれだけ読めるか。
3月下旬には Locus の推薦作品リストが出るだろうから、その上位から片付けてみよう。(ゆ)

 あけましておめでとうございます。
今年が皆様にとって充実した年になりますように。

 当ブログでも昨年からの積み残しがいろいろありますが、ぼちぼち行こうと思うとります。年もとりましたし、病気もしました。なにごともぼちぼち。急がず、されど休まず。

 今年のライヴ開きは 01/12 のアンチャンプロジェクト&東冬侯温(トン・トン・ホウ・ウェン)。台湾先住民のシンガー。まったく聴いたことがありませんが、アンチャンの安場さんの強力推薦なので、まことに楽しみであります。

--引用開始--
年の初めに--花綵列島の北と南の民が集って--
2015年1月12日(月・祝)開場16:30、開演17:00〜
スペース・オルタ http://spacealta.net/ (新横浜駅下車、横浜線沿いに徒歩7分)
   横浜市港北区新横浜2-8-4オルタナティブ生活館B1
   TEL&FAX:045-472-6349/留守電・FAXでの前売り予約可
列島弧から南洋の島々の唄を中心に歌うアンチャンプロジェクトが、台湾東部のタロコ族の伝統芸能を元に世代と国を越境しながら活動する東冬侯温(トントン・ホウウェン)をゲストに、首都圏に暮らすアイヌの方々も迎えて愉しむステージです!
料金:当日2,000円 前売り1,500円(お屠蘇付き)
問合せ先:TEL&FAX:045-472-6349/留守電・FAXでの前売り予約可、 安場:rxk15470(@)nifty.com
--引用終了--

 今年最初のイベントは 01/31 四谷・いーぐる連続講演での「いーぐるでデッド Vol. 1」です。ジャズと関連のあるグレイトフル・デッドの録音を聴きます。翌月 02/28 「Vol. 2」では、コンサートのライヴ録音丸々1本を聴きます。いつのものにするかはまだ思案中。

 今年はグレイトフル・デッド結成50周年、ジェリィ・ガルシア没後20年。ということで、いろいろ音源、資料が出るでしょう。できるかぎり、いやぼちぼち追いかけるつもりです。デッドはひとつの宇宙といえるくらいの広がりが見えてきて、面白くなってきました。

 3月までには本が1冊出ます。旧著『アイリッシュ・ミュージックの森』を改訂したもの。アルテスパブリッシングからです。今年はもっとうたの勉強をしようと思います。

 読みたい本が積みあがるばかりで全然消化できませんが、重点としてはマラザン・シリーズとマイケル・ビショップとサミュエル・ディレーニィとキャスリン・マクリーンあたり。それに武田泰淳全集。岩波文庫の『滅亡について』を読んで、やはりこの人は読むべしと決意した次第。

 


 ハードウェアではいよいよモバイルが先頭に立って、こちらも面白くなってきました。これまでにないタイプの製品も出はじめて、楽しくなりそうです。個人的にはニール・ヤングが主導している Pono がどう展開するか。半年以上待ってやってきたプレーヤーは音も好みだし、使い勝手も良いし、バランス駆動もできるし、で期待以上。イヤフォンやヘッドフォンを出す計画もあり。ミュージック・ストアの方はわが国での開店は正直期待していませんが、ひょっとすると地殻変動が起きるかもしれないと思わせてもくれます。

 ヘッドフォンでは平面駆動の選択肢が広がるのが楽しみです。イヤフォンは昨年末に聴くチャンスのあったファイナルオーディオデザインの新作 heaven VIII と VII が、ファイナルとしても一段新しい次元に入って、今年はもう少し聴きこみたい。

 鉛筆では Palomino Blackwing の良さがようやくわかりだしました。

 どうやら20世紀以上に「激動」になっている今世紀、なんとか今年も楽しく生き延びたく、ぼちぼちと精進したいものです。なにとぞ、よしなにお願いもうしあげます。(ゆ)

 ルーシャス・シェパードが今月18日に死去、とLocus が昨日の朝報じる。享年70。デビュー時すでに40歳だったせいか、いつまでも若い印象があったが、いつの間にか古希を迎えていたのだった。

 シェパードを初めて意識したのはいつだったろう。たぶん年刊傑作選のどれかで "Salvador" を読んだ時ではなかったか。フレドリック・ブラウンの「闘技場」の再話ともいえる話で、近未来の中米に投影したヴェトナム戦争を背景に、人間の「非人間的」側面というか要素というか、「暗黒面」を粘着性の高い文章で圧倒的リアリティをもって描きぬいていた。人間にはそうした暗黒面が人間である以上否応なくついてまわるものだ、いや、一般に「非」人間的といわれる側面こそが、人間を人間たらしめているのだと、頭というよりは胸の底、横隔膜のあたりにズシンと叩きこまれたような衝撃だった。

 それからシェパードを手当たり次第読みだした。サイバーパンクよりも何よりも、この人の作品には、「今」という感覚が濃厚だった。目の前で展開されているのは、超現実あるいは現実の裏でのことであろうとも、語られているのは自分が生を享けたこの世界、という感覚は絶対的だった。その世界の、こういう形でしかあぶり出せない位相が、あらがいようもなく、つきつけられる。

 手許にあった雑誌、アンソロジーをしらみ潰しにあさっては読んでいった。Locus の記事では UNIVERSE 13 の "The Taylorville Reconstruction" がデビュー作とあるが、F&SF の "Solitario's eye" の方が先という記憶がある。「サルバドール」の、一種異様な熱を帯びた闇の味覚はどれにも健在だった。ひとつだけ異色だったのが "The fundamental things" で、乾いたユーモアに驚いたものだ。

 このユーモアは小説よりもエッセイに色濃く出ることが多い。F&SF に連載していた映画評などに典型的だが、時にそれが爆発することもあった。ハリー・ポッターの映画の一本目が公開されたときだったと思うが、その行く末を予想した文章にはしばし笑いが止まらなかった。一方で、「ハリポタ・ファン」の中には、大いに腹を立てる人も少なくないと思われた。

 「サルバドール」の次に、同じくらい衝撃を受けたのが "A Spanish lesson"、就中作者が作品の枠から踏み出して重い問い掛けを放つラストに茫然となった。

 そして "Nomans Land" の恐怖。これは「究極の恐怖小説」だと、今でも思う。怖くて再読できない。

 "Barnacle Bill the spacer" は堂々たる「スペース・オペラ」に "The fundamental things" のユーモアが、より陰翳を深くして潜み、絶妙の味を出している。

 とはいえ、シェパードといえばやはり「竜のグリオール」のシリーズということになる。最初の作品「竜のグリオールに色を塗った男」は、初読ではその重要性を完全に見逃した。真価がわかったのは、人並に第2作「鱗狩人の美しい娘」で、Mark Ziesing が出した瀟洒なハードカヴァーだ。そして "The father of stones" にはただただ圧倒された。その時点で、このシリーズは、あと1本、長めのノヴェラを書いて完成と著者が言うのをどこかのインタヴューで読んで心待ちにした。が、出ない。15年経って "Liar's House" が出たときは、だから踊りあがって悦び、本が届くと飛びついた。

 さらに7年後に出た "The Taborin Scale" も予約して届くと同時に読んだ。

 読んだのだが、どうにもはぐらかされたという想いがぬぐえない。後の2作は前3作とは明らかにテーマもアプローチもスタイルも変わっている。もちろん変わったこと自体は当然でもあろうが、どうも良くない方に変わったのではないか。

 だから集大成たる THE DRAGON GRIAULE が届いたときには、新作が含まれていたが、読む気になれずに積読のままだ。

 この時期、前世紀末あたりから、小説を読めない症状が続いていたのだが、それでもシェパードのこのシリーズだけは、自分でも驚くほどあっさりと読むことができた。それだけに、失望感は大きかった。

 とはいえ、シェパードの新しい小説をもう読めなくなる、とわかった今、あらためて全作品の再読を始めようとすれば、やはりここから始めるしかないだろう。他ならぬグリオール・シリーズの長篇が予告されていることでもある。これが遺作になるのだろうか。

 シェパードは中篇の作家だ。長篇は書けない。かれの長篇は長さは長篇でも構造はノヴェラだったり、ノヴェラの連作だ。その代わり、中篇には無類の上手である。こういう人はサイエンス・フィクションではよく見かける。ポール・アンダースン、ロバート・シルヴァーバーグ、ジョン・ヴァーリィ、ロジャー・ゼラズニィ、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア。アンダースンやシルヴァーバーグは長篇も上手いが、本領は中篇だ。ヴァーリィは長篇よりも中篇の方が遙かに良い。ゼラズニィも一番得意だったのは中篇だろう。中篇の翻訳は出にくいから、こういう人たちはなかなかまっとうに評価されない。そして、サイエンス・フィクションにはノヴェラがベストの形式、と言ったのはジョアンナ・ラスだったと思うが、こうした人たちの作品を思えば、至言と思う。

 シェパードは上記の人たちに比べても中篇がさらに得意で、中篇専門作家といってもいいくらいだ。中篇、アメリカでいう novella や novelette という形式は、かれのためにある。シェパードを読む鍵は、内容だけでなく、形式にもあるはずだ。

 ルーシャス・シェパードは、サイエンス・フィクションから生まれた、アメリカ最高の作家、と思う。文学上の系譜からいえば、サイエンス・フィクションの本流ではなく、おそらく南部ゴシックの流れを汲む。フォークナーにもつながり、さらにはマーク・トウェインにまで遡るかもしれない。

 とはいえ、ディックやヴォネガットのようにアメリカ文学のカノンに組込まれることはないだろう。ディレーニィのように敬意を集めることもおそらくない。ラファティやティプトリーのように、マニアックに愛されることもない。

 にもかかわらず、かれが現代アメリカ最高の小説家であることは動かない。山田風太郎が日本最高の小説家であるように。風太郎は長篇が得意だが、作風も似ていなくもない。ドライで冷徹なユーモアが底に流れているのも共通している。風太郎を読むことが20世紀後半の日本を読むことであると同様、シェパードを読むことは、ポスト・ヴェトナムのアメリカを読むことだ。そこでは、人間は人間的であろうとすればするほど否応なく「非」人間的になってゆくという、究極の悲劇(それこそが「原罪」ではないか)同時に喜劇が、ヒリヒリとしたリアリティを備えて展開される。それは21世紀の最初の四半世紀に、ぼくらが直面している世界そのものだ。シェパードを読めば、世界が「わかる」。

 『タボリン鱗』で、巨竜グリオールは長い長い眠りから覚め、立ち上がろうとして崩れおちる。グリオールは「文明」だろうか。それとも「世界」なのだろうか。あるいは「人間」という存在そのものの鏡像なのか。

 30年の文業の成果は多くはないが、少なくもない。「余生」のテーマとしてはちょうど良い。楽しい作業には必ずしもならないとしても、手応えは充分以上、生きてあることの実感は存分に味わえる。

 さらば、シェパード。おんみの魂の自由に時空を翔けめぐらんことを。合掌。(ゆ)

 あけましておめでとうございます。
今年が皆さまにとって実り多い年になりますように。


 年末の12/30に風邪を引いたのが、大晦日、元旦といささか無理をしたら長びいてしまい、今日現在まだ居座っています。そういつまでも寝ていられないので、市販薬を飲んで起きだしました。

 元旦の朝、布団を上げようとシーツを窓の外で振ったところ、左手の小指にストラップが引っかかって iPod touch がすっとびました。あーれーと目で追いかけると植え込みは飛びこえて、下の階段の路面に落下したようです。せっかく年もあらたまったのに、元旦からこれかよと、それでもほおっておくわけにもいかず、拾いにいきました。

 このマンションは一風変わった構造になっていて、ぼくが寝ている和室は道路に向かって斜めに突き出す形。階数としては3階ですが、実質5階分あると、運送業者に言われたことがあります。落ちた地点は地面からは一段あがったあたりでしたから、少なくとも4階分は落下したはず。

 それがです。拾ってメイン・ボタンを押したら、なんと、何事もなくスタート画面が現れるではないですか。

 よく見ると、画面を正面から見て左下の裏側からコンクリートに当たったらしい。そこに傷がついて、イヤフォン・ジャックのパイプがわずかに盛り上がっています。また正面のガラスを囲む細く白いプラスチックの枠が一部はがれました。

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 落ちたときには角から落ちるような重量バランスの設計がされているのか。それとも、たまたま角から落ちたのか。いずれにしても、画面は無傷。イヤフォン・ジャックはさすがに途中で曲がっているらしく、イヤフォンは挿せませんが、ふだん使うことはないので問題ありません。Lightning コネクタも問題ないようで、充電もノートラブル。メイン・ボタンがわずかにへっこんだかなあ、という感じ。

 こりゃまるで、ガンの進行度がすれすれで辛うじて助かった自分のカラダとそっくり同じではないか。

 この iPod touch は一昨年10月に買った 64GB のレッドで、まだあと2年くらいは使いたいところですが、これでますます愛着が湧いてしまいました。

 それにしてもこれはやはりついていた、というべきでしょうね。


 久しぶりにカラダの報告をすれば、今のところ各種定期検査でもガンの転移、再発の徴候はみつかっていません。あと3ヶ月、いや3月1日ですから実質2ヶ月で手術から丸3年となり、それまでに何もなければ再発の確率はがくんと下がると言われています。

 抗がん剤治療が終了して約1年半たちますが、副作用の一つである手足の痺れは両足の人差し指と中指の先に、まだごくわずかですが残っています。これもしつこくいつまでも残っているなあ、と思っていたら、ある日、気がつくとぐんと小さくなっていました。現在は意識すると痺れがあるとわかるぐらいです。

 体のあちこちが痒くなる方も、徐々に、ほんとうに徐々にでありますが、少なくなっています。先日シンガポールから帰ってきてから、ぐんと減ったように思います。シンガポールにいた5日間ほどはまったくどこも痒くなく、帰ってきてすこししてから、うん久しぶりにここが痒いぞ、と出てきました。が、その出方が少ない。頻度も痒みも小さくなっています。シンガポールで3日間に2度食べたカレーのおかげか。ああ、あのカレーを食べられれば、これくらいの風邪は一発で治ってしまうのに。

 と書いて思いついてカレーの材料を買ってきて夕飯はカレーだ。

 とまれ、痒みが少なくなってくれているのはまことにありがたいことであります。

 これを総じてみれば順調ということになりましょう。風邪からの回復が遅くなったり、時には回復したとみえたのが錯覚だったり、あるいは手術前とは動作のスピードが格段に落ちていたり、ということはあっても、全体としてみれば、まずまず健康で、これといった支障もなしに日常生活が送れているわけですから。


 今年の目標としてはできるかぎり歩こうと思っています。手術前、体調の悪いのはとにかく運動不足だ、と思いこんで、今から振り返るとかなり歩きまわっていました。毎日、天気さえ許せば最低でも1時間半から2時間歩いていました。ガンの進行度が手術前の予想よりも浅かったのは、ひとつにはそのおかげではないかとも思っています。

 退院後、やはり何だかんだで歩くのが減っていました。昨年後半は意識して1日最低5,000歩を目標にしました。今年は年間250万歩が目標。


 その他には1日でも生き延びて、1曲でも未知の曲を聴き、1人でも未知のミュージシャン、書き手、描き手の作品に触れ、1頁でも未知の本を読み、という暮らしを続けられますように。

 当面はグレイトフル・デッド〜ジェリィ・ガルシア、キューバやスペインのジャズ、日本列島内をベースにする人たちを追いかけることになります。

 活字方面では、高橋昌明、宮崎市定、田中純、加藤寛一郎、Stuart Goldman、Raymond Williams、Ray Monk のバートランド・ラッセルの伝記あたりからぼちぼちと。そういえば、昨日の ODNB のフリー配信の対象オーガスタス・ジョン描くところのオットリン・モレルの肖像画は凄いですね。この絵を見て、やはりモンクのラッセル伝が呼んでいるのが聞こえた気がします。

 小説はあいかわらず読めず、昨年 The Lord of the Rings を久しぶりに読みかえして、これはやはり近代的意味での小説ではないなあ、との思いを新たにしました。その関係でいえば Earthsea Cycle を読み直すか、『はなはなみんみ』に再挑戦するか、いっそこれも途中で止まりながら読みたくないとは思っていない『死霊』を続けるか。どうも尋常の「小説」の枠からははみ出るようなものにしばらく浸らないとどもならんのではないか。といいながら、吉川英治の『私本太平記』をもう1度と思っていたりします。後醍醐の隠岐脱出から鎌倉幕府滅亡にいたるあたりの迫力は、その後ずいぶんいろいろな本を読んだ気もしますが、あれに匹敵するものはなかった。ああいう太い骨がどおんと通った話を書ける人は、今はもう出てこないでしょう。網野善彦の若い頃の仕事で、鎌倉時代の通史である『蒙古襲来』と読み比べてみるのも面白いんじゃないか。

 吉川英治が読みたいと思う欲求の裏には、やたら長いものを読みたい、という欲求があります。日本語にはなかなかほんとうに長いものがない。『グイン・サーガ』があるではないか、という声もありそうですが、あれはね、どうも密度が違うのです。いや、『グイン・サーガ』の功績を認めるのにやぶさかではないのです。ただ、読んでいると、どうもやはりもの足らない。するすると話が指の間から漏れてゆくような感じがしてなりません。あるいはするすると呑みこめてしまって、腹にたまったと思ってもすぐに空いてしまう。もう少しこう歯応えがあって、満足感が持続し、とんでもなく面白い話を読んでいるのだという実感が欲しい。大西巨人の『神聖喜劇』や藤村の『夜明け前』の密度であれの少なくとも3倍くらいの長さのもの。

 『グイン・サーガ』が目標のひとつにした『大菩薩峠』という選択肢もありますね。聞いたかぎりでは実はあれは「単なる」時代小説などではないすっ飛んだものでもあるようです。

 ただ、英語を読む習慣を失いたくないことから言うと、いくつもある大長編ファンタジー・シリーズを次々に読破する快感はどうだろう、と思ってしまいます。実は昨年末、例の絶好調テレビ・ドラマの原作 A Song of Ice and Fire の一冊目 GAME OF THRONES を読みかけてました。ほんのさわりだけで、話がどうのこうのというのはまだまるでわかりませんが、とにかく文章のうまさ、流麗といいたいくらいの文章のみごとさにはあらためて舌を巻きました。これなら読んでいけるかな、この文章を読む悦びだけでもついていけるかもしれないと思った次第。

 ジョージ・マーティン、と書くとかのビートルズ関係者と同じ名前だと今気がつきましたが、ジョージ・R・R・マーティンと名乗ったのはそのせいか。はるかウン十年前、事実上の第一長篇であるライザ・タトルとの共作 WINDHAVEN(『翼人の掟』として集英社から邦訳あり)をリアルタイムで読んで感心したことがあります。安田均さんが訳された中短編集『サンドキングス』は好評で版を重ねてましたが、あれはちょっと趣味に合わなかった。読まなくても本だけは買っていたら、The Armageddon Rag のあと、ぱたりと出なくなりました。どうしたのかな、と思っていましたが、最近あらためて見てみたら、あの本があまりに売れずに、作家としての生命を1度断たれたそうな。やっぱり早すぎたんでしょうかねえ。それとも「文学的」過ぎたのか。その後、テレビ・ドラマの方面にいって、そちらでは成功し、それが今の超新星的大成功につながってもいるようですが、おかげで売れなかった旧作も続々再刊されているようで、まずはめでたいかぎり。

 こうおしゃべりしていたら、マーティンを全部読みたくなってきました。幸い本だけは全部揃っているはず。Wild Card のシリーズは、あれはまた別の話。まずは、本棚のどこかにあるはずの本を探しださねば。(ゆ)

・マンドリンでどうやって野菜をスライスするのだ、と思ったら、楽器と同じ名前の、そういう道具があるのだった。なるほどあれば便利だが、包丁でできないことじゃないな。

マトファ 18-0マンドリンカッター 44602 《60枚刃》[野菜スライサー]


・シンガポールの Jaben が Hippo ブランドで出した新しい小型PHA CriCri が楽しい。先に出た DAC 付きの CriCri+ の弟分で DAC 無しのアンプだけ。ゲインの切替とベース・ブースト付き。弟分なのだが、アンプとしての音は兄貴よりも良い。

    まず驚いたのはサウンド・スペースの広さで、サイズと反比例している。その広い空間の隅々までディテールが明確。音の性格も素直で色付けがなく、いわゆる聴き疲れしない。ベース・ブーストは入れない方がいいと今のところは思う。

    これとファイナル・オーディオPIANO FORTE II という組み合わせは散歩のお供の定番になったのだが、この頃は家の中で、すわって聴くときにも活躍している。これ以上、何も要らないよ。やはり軽くて小さくて安くて音が良い、というのがデジタルの最大の利点ではないか。
    
    メーカーや販売店は価格の高い据置きを薦めるけれど、それは「商売」を別にすれば、旧来の「オーディオ」の思考法を引きずっているので、必ずしもデジタルの特質を十分に展開したものではない。それでしか聴けない音がある、というのは「昔は良かった」の言い換えにすぎない。
    
    それにしても、今世に出ているデジタル・オーディオ機器のデザインは芸が無さすぎる。例外は iOS機器と CEntranceDACPort ぐらい。Go-Vibe Volante もデスクトップ真空管アンプの新しい形を提案している。どれも面だけでなく音も良い。

JABEN Go-Vibe Volante アンプ【送料無料】
    
    デザインに芸が無いのはPCも同じだが、モニタ画面が不要なのだから、オーディオ機器はもっとデジタルを活かすカタチを追及すべきだ。


Tor Books が7月から eBooks をすべて DRMフリーにする、と発表したBaen BooksNight Shade Books はすでに DRMフリーで eBooks を販売しているが、いわゆる「ビッグ6」と言われる大手の一角では初めて。と Boing Boing に出た。と思ったら CNET にも出ていた

    世界はどんどん進んでいるが、わが国はまるで江戸時代だ。21世紀に入ってからのこの国は、時代を逆戻りして幕藩体制に移行しているように見える。そのうち鎖国するはずだ。そうして二百年ばかりすると関ヶ原で家康が負け、秀吉が光秀に殺され、その光秀を本能寺で討った信長が天下を統一するのだろう。まるで山田風太郎の『魔天忍法帖』そのままになるにちがいない。

魔天忍法帖 新版 (徳間文庫)
  
    eBooks の販売にまで国境の制限があるのは、そのせいか。全部ではないが、特に新刊で、あんたの国では買えないよと言われることがある。紙の本は買えるのに、eBooks は買えない、というのはワケわからん。Kindle 版は国境制限は無いようだが、Nook や iBooks の版は制限がある。そして制限のあるものには Kindle 版が無い。
    
    向こうで出たものをすぐ読みたい時、一番速いのはもちろん eBooks だ。在庫が確保されて送られてくるのを待つ必要がないのだから。まあ、そう頻繁にあるわけではないが、たまにはすぐ読めないと読書意欲が雲散霧消することもあるのだ。


・これに関連して、ある大手出版社の重役らしい人物が自分がアマゾンから買った eBook のDRMをはずしたことを、匿名でネットで告白しているのが、やはり Boing Boing に出ていた

    eBook を買うことはその本を読む「ライセンス」を買うことで、中身そのものを買うんじゃない、というのはバカげてる。だから自分で買った eBook が、機器が別だと読めない、て? 冗談じゃない。それで DRM をはずしたが、おかげで DRM がいかにクソッタレかよくわかった。DRM で利益を得ているのは eBooks を売っている連中だけで、出版社にとっても著者にとっても読者にとっても、DRM はクソッタレだ。
    
    DRM をはずすのは別に難しいことじゃない。情報はネット上にいくらでもある。ちょっと調べて、あとはトラブってもあきらめない根気がいるだけだ。罪の意識? はずしたものをネットにばらまけば罪だろうが、自分だけで読むんだから、どこが悪い。


A Princess of Mars・エドガー・ライス・バロウズが Library of America に入った。というのは、いざそうなってみるとうなずけるけれど、やはり驚く。ラヴクラフトが入った時も驚いたが、それ以上の驚きだ。ただしいつものフォーマットではなく、『ターザン』と『火星のプリンセス』それぞれのハードカヴァー版、というのは、やはり他との差別化のためだろう。さすがにヘンリー・ジェイムズやフォークナーの隣に ERB が同じ形で並ぶ、というのは避けたかったか。

    前者は未読だし、後者は一度邦訳を何とか読みとおしたが、さっぱり面白くなかった。原書で読みなしてみると、違うかもしれない。

    こうなってくると、ハインラインやアシモフや、あるいはティプトリーやル・グィンが LOA に収められる日も近いのかもしれない。ん、それよりはE・E・スミスの方が先か。
    
    もっともこの LOA そのものが、いかにもアメリカ的な、ヨーロッパへの対抗心の現れにも見える。


・生協を通じて買っている秋田の黒瀬農舎の米に付いていた「提携米通信」によると、関東地方の精米所で出た糠から作られた「米糠ペレット」が放射能汚染されていた由。やはりそこらで売られている米は汚染されとるな。


・放射能の影響のような微妙な問題について、ふだん冷静な人が急にある主張を断定的にわめきちらしだすのは、直接の利害関係があるからなのだろう。その落差の大きさに、問題の根の深さをあらためて思い知る。

    それにしても、わが国社会にこういう深刻な亀裂を生みだしたということでも、電力業界と原子力ムラの罪は重い。(ゆ)

The Jack Vance Treasury    Amazing Stories 1962年8月号に "Gateway to Strangeness" のタイトルで発表され、1964年の著者第一短篇集 FUTURE TENSE に収録の際、このタイトルに変更。さらに1981年、DAW Books から出した短篇集 DUST OF FAR SUNS 収録の際、"Dust of Far Suns" に改題されている。「光子帆船二十五号」の題で中村融さんによる邦訳が SFM1992年11月号にある。
   
    老朽船の光子帆船25号で火星周回の訓練航海に出る6人の訓練生とその教官の話。航路計算用コンピュータにトラブルが起き、あっという間に火星を飛びこし、さらには木星も飛びこしてしまう。その先に重力スイングに使える惑星はない。絶望か。そして、そのトラブルの正体は。
   
    なんといってもこの教官のキャラクターが良い。誰からも嫌われながら、かれに訓練された者は誰でもそのことを誇りとする教師。その訓練を受けて宇宙人として適確と判断された者は皆、トップにまで登りつめる。
   
    一方で、作者は、この人物が抱えているはずの不満、挫折感、歓び、生き甲斐といったものは一切なにも書かない。それはもうみごとなほどで、唯一それらしきものは、三日間自室に閉じこもっていた後に見せる人生の敗残者の姿だが、これまた故意にそういう姿を見せているとることも可能だ。キャラクターの内面を書かないというのはヴァンスの定評だが、こういうところは実際ハードボイルドそのままなのだろう。チャンドラーすらちゃんと読んだことがないので、断言できないが。あくまでも冷静に、感傷を排し、起きたことだけを書いてゆくその姿勢は、まさにこの教官のものにも見える。

    一方で、地球軌道を離れてゆくときに訓練生たちが感じる宇宙空間の巨大さ、空虚の感覚の描写。伏線の一部ではあるが、この感覚こそは「センス・オヴ・ワンダー」ではある。こういう描写が、上記のようなハードボイルドな叙述の中に出てくると、そのリアルな感覚は圧倒的だ。同時にこれは登場人物たちが内面で感じているものを外部に投射する形で描写していることもわかる。このあたりの対照と、暗喩といっていいか迷うが、比喩の一種にはちがいない(文学理論の上ではなにか用語があるのだろう)、その使い方の妙がヴァンスの魅力のもとなのだろう。

    それにしても、たしかにこれもまた「宇宙観光冒険SF」の一形態ではある。1976年の THE BEST OF と今回読んだ TREASURY にはこれを書くきっかけを明かした著者のコメントがついている。ある時、当時の『アメイジング』誌の編集長だったシール・ゴールドスミスを囲んで、ヴァンス、フランク・ハーバートがポール・アンダースンの家で食事をした際、ゴールドスミスが最近まとめて買いこんだ表紙用の絵を何枚かもってきて、3人にそれぞれ一枚の絵をモチーフに作品を書くよう依頼した。アンダースンが割り当てられた絵は忘れたが、ハーバートは異星人らしきものに切断された人間の首がでかでかと描かれたものをあてがわれた。ヴァンスは光子帆船の群れの絵だった。視覚的効果のために画家が描きこんだ非科学的特徴まできちんと話に反映させるのに苦労したが、ハーバートの絵がまわってこなかったことにはいまだに感謝している。
   
    ちなみにシール・ゴールドスミスは60年代、『アメイジング』を足場に、アンダースンやヴァンスなどの実力派に代表作を書かせる一方、フレデリック・ポールとともにラファティを世に出した名編集者であることは浅倉さんも書かれている(『ぼくがカンガルーに出会ったころ』77pp.)。彼女が発見した作家としては他にディッシュ、ル・グィン、ローマー、ゼラズニイがいる。先日もある人と意見が合ったが、ポールは作家としてよりも編集者としての業績の方が、やはり大きいのではないか。
   
    ついでに言えば、40年代のキャンベル、50年代のバウチャーとゴールドときて、60年代がポールとゴールドスミス、そして70年代はF&SFのエド・ファーマン、というのがアメリカのSF雑誌編集者の代表ということになろう。70年代はオリジナル・アンソロジーの時代でもあって、ファーマンはデーモン・ナイトとテリィ・カーの影に隠れている気配だが、70年代のF&SFは同誌の黄金時代のひとつといっていいと思う。
   
    さらについでに言えば、わが国のSFMが創刊された1959年12月は、ゴールドの『ギャラクシー』が失速して隔月刊になった直後で、そのためSFMはF&SFの日本語版として出発する。福島正実はみずから「日本のキャンベル」を任じてはいたが、『アスタウンディング』そのものは目標とはしなかった。SFMのモデルとしては『ギャラクシー』かF&SFしかなかったのだ。創刊から2年後にF&SFとの特約をいったん打ち切った後、SFMは1966年になってポールが再建した『ギャラクシー』と特約を結ぶ。ここから、ヴァンス、コードウェイナー・スミス、エリスン、ニーヴン、シルヴァーバーグ、ゼラズニイといった作家のばりばりの新作が邦訳されることになる。このあたりの事情も浅倉さんが書かれている(前掲書、92pp.)。思うに福島のSFMの理想像のひとつがここでようやく実現していたのではないか。SFM、少なくとも創刊から森優時代までのSFMは『ギャラクシー』の化身という気がする。
   
    ところでこのノヴェラが発表された同じ月の Galaxy には、かの「竜を駆る種族」The Dragon Masters が一挙掲載されている。翌年からは「魔王子」シリーズが始まる。この頃が作者の創作力のひとつのピークにちがいない。(ゆ)

pa-tas    F&SF 1963年6月号に掲載され、翌年のヒューゴー短篇賞を受賞したポール・アンダースンのノヴェラ。アンダースンにとっては1961年度の The Longest Voyage 「長い旅路」による受賞に続いて二度めのヒューゴー。
   
    本人の単行本としては1964年 Doubleday Science Fiction の1冊 TIME AND STARS の巻頭に収められた。NESFA Press の中短編全集では最新刊の第3巻 The Saturn Game 収録。1976年に『別冊・奇想天外 No.1 ヒューゴー賞大全集』に中上守氏の訳で「王に休戦なし」として、1978年に講談社文庫の『世界SF大賞傑作選1』に矢野徹さんの訳で「王に対して休戦なし」として邦訳されている。

    タイトルはラドヤード・キプリングの詩 "The Old Issue" の一節かららしい。この詩は1899年の第二次ボーア戦争勃発に際してキプリングが書いた痛烈な政府批判だ。ボーア戦争は南アフリカを完全に支配下に置くことをもくろんだ英国に、英国より先に入植していたオランダ系アフリカーンズたちが抵抗して起きた。英国がその帝国建設のために戦った戦争の中でもおそらく最も苦しく、犠牲も大きかったものだろう。ちなみにウィンストン・チャーチルはこの戦争に従軍して捕虜となるが脱走し、英雄となる。作家としてのデビューはこの顛末を書いた書物。キプリングは圧政に抗して自由を守る戦いを称揚している。ここでの「王」は複数形で、「王権」あるいは「政府」「征服者」を意味する。だからこのタイトルは「圧政者と妥協することはありえない」ということになる。

    これがヒューゴーをとったのは、善意を押しつける異星人にたいして自主独立をかちとるというストーリーがアメリカの当時のSF読者の心の琴線に触れたのだろう。10年後だったらヒューゴーの候補にもならなかったのではないか。

    ちなみに同年の短篇賞の他の候補は

「コード・スリー」 Code Three リック・レイフェル
「伝道の書に捧げる薔薇」 A Rose for Ecclesiastes ロジャー・ゼラズニイ
「野性のペルシダー」 Savage Pellucider エドガー・ライス・バロウズ

ということで、ペルシダーは未読だが、これだったらゼラズニイにとらせたいところだ。リック・レイフェルの作品も出来としては本作よりは上だろう。

    ただ、作品の本来のテーマは暴力と平和の対照にあるはずだ。紛争解決の手段として暴力を選ぶことは人間の本性なのか。だとしても、それは捨てられないのか。

    非対称的な軸で紛争を解決しようとする場合、不利は方は暴力に訴えるしか選択の余地が無い場合がある、というのが世の「常識」だ。自爆攻撃はその極端な例だが、ゲリラ戦は一般に不利な方の戦術だ。

    そうではない、いかなる場合にも、暴力は唯一の解決手段ではない、常に平和的手段はあるのだ、とこの異星人は主張し、主人公マッケンジー大佐の娘ローラもまた主張する。異星人の善意の「押し付け」には暴力をもって対処しえても、娘の決意を暴力で変える術はない。

    ここでの異星人の誤りは、平和志向を植えつけるという目的のために暴力に加担するという手段を採用したところにある。

    平和を守るということはことほどさように難しい。戦争がなくならないのは、戦争する方がよほど簡単で楽だからだ。どこまでも平和的手段をとるにははるかに大きな勇気と智慧が必要だ。アンパンマンを見るがいい。
   
    ここで勝利を収めるのは、アメリカ的思考からは正しいとされる側、つまり個の自由を尊重する側である。暴力に疑問を呈するためには、正しい目的に使用された場合で問題が検討されなければならない。だから物語の軸が「圧政」への抵抗の成功として描かれるのは必然だ。しかし、そのことで、作品の真のテーマがおおい隠されてもしまう。そのバランスをぎりぎりのところでとっている、とみれば、これはアンダースンの作品の中でも重要なものの一つではある。しかし、それがヒューゴー受賞の理由になるかは心許ない。
   
    このあたりの「わかりにくさ」が、アンダースンがそのキャリアや作品の質に比べて評価が低い理由だろうか。ハインラインにはこんな「わかりにくさ」はない。つねにきわめて明解だ。しかしこうした「わかりにくさ」こそは、SFとは言わない、小説が書かれ、読まれるそもそもの理由ではないか。
   
    代表作とされる「タイム・パトロール」シリーズでも、もう少し明確な形でだが、こうした「わかりにくさ」が身上だ。やはりこれがアンダースンの作品の基調だろうか。ならば、アンダースンはやはり読まれなければならない。(ゆ)

Galileo's Dream    ロビンスンはラファティに通じる。
   
    奇をてらったわけではない。いや、両方とも「奇」をてらっている、とは言えるかもしれないが。
   
    つまり、どちらも書いている、いたのは「ほら話」英語でいう "tall tales" なのである。現代でこの類の話を書くにはSFが一番合っている。読者も多いし、受け入れられやすいというのでSFの分野で書いたのだ。
   
    もっともはじめから「SF」というなにか固まったものがあり、それに合わせて、それを書きたいから書く、という書き手は、そんなに、というかほとんどいないのではないか、とも思う。
   
    たいていは、それぞれに書きたいもの、あるいは書けてしまう、できてしまうものがあり、それをリリースしようとした時、最適な場がSFだった、というものではないか。あるいは他ではできない、リリースを断わられて、やむなくSFで、というケースも結構あるようにも思われる。
   
    ほら話もそのひとつで、パブなどでの「かたり」ならまだしも、活字としてリリースしようとすれば、他にはどこにも落とし所はなかろう。SFというのはまことに便利なものではある。
   
    ガリレオといえば地動説裁判、そしてガリレオ衛星、とまあ相場は決まっている。実際にかれがどういう人間で、どういう生活をして、何を残したか、まではまずいかない。
   
    木星の一番大きな四つの衛星をガリレオ衛星という、なんてのも、根っからの天文ファンでなければ知らないかもしれない。とは言え、知っている人間にとっては、自分が発見した衛星を望遠鏡で覗いていたら、その上に立っていた、なんて話は、もうそれだけでうれしくなってくる。理屈などどうでもいいのだ。
   
    とにかく、ガリレオをかれが見つけた衛星の上に立たせたい、あるいはその間を飛びまわらせたい。
   
    いかに天才とはいえ、17世紀はじめのイタリアに生まれ育った人間だ。しかもイタリア半島から一歩も出たことはない。敬虔なカトリックで、地動説は奉じてもそれで信仰が揺らぐわけではない。そんな人間を、相対性理論から先、ニュートンからアインシュタインまでの距離よりも大きな距離がアインシュタインから先にあるような、そんな科学のもとにできている世界にいきなり連れこんで、無事にすむはずはない。
   
    常識的に考えれば、それはそうだろう。
   
    だからこれはほら話なのだ。ポール・バニヤンの話、ジョニー・アップルシードの話、あるいは火星のビッグマンの話。呪文をとなえるとせまくなって他の人間には見えなくなる谷の話。九百人のお祖母さんの話。
   
    むかしむかし、あるところにガリレオという男がおりました。ガリレオは望遠鏡の噂を聞いて、ひとつ自分でも作ってやろうと思いました。できたもので夜空をあちこち眺めていると、あれれ、木星のそばに何かあるぞ。やあ、動いてる。あれって、もしかして星じゃないか。地球に月があるように、木星にも木星の月があるんじゃないか。やあ、四つもあるぞ。というので、ガリレオはこの発見を本に書きました。みんなはそれを読んで、びっくり仰天、やんややんやとはやしました。
   
    でも、ガリレオはだんだんつまらなくなりました。木星のまわりを回っているのはわかるが、あそこはいったいどんなところなんだろう。行ってみたいなあ。そう思いながら、毎晩望遠鏡で覗いておりました。望遠鏡はどんどん良くなって、木星の月たちもだんだん大きく見えるようになります。でも、その上まで見えるわけではありません。
   
    そんなある日、望遠鏡の噂を聞かせてくれた異邦の男が持ってきたのが、見たこともないような大きな望遠鏡。早速これで覗かせてもらうと、をを、星がどんどん近くなる、うわ、落っこちる。というので気がつくとガリレオは自分がみつけた木星の衛星のひとつの上に立っておりました。めでたし、めでたし。
   
    いや、めでたしではなくて、これからガリレオの冒険が始まるのだけれど、これが20世紀前半だったら、ガリレオは地球のことなどきれいさっぱり忘れて、木星系狭しとばかりにあばれまわり、美女を助け、悪者をやっつけて大活躍、やがて木星から先の太陽系を統一して偉大な王となり、末永く、しあわせに暮らしました。めでたし、めでたし。
   
    と、今度こそはめでたしになるかもしれない。しかし、今は21世紀だ。ポスト9/11の時空。それに、ガリレオが木星王になるというのはほら話ではない。ほら話はとぼけなくては。
   
    そこで、作者はどうしたか。
   
    ガリレオには地球と木星の間を往復してもらうことにしたのだ。
   
    そしてもうひとつ、地球でのガリレオにはその人生をしっかり生きてもらうことにした。つまり、実際に生きたガリレオはこうだっただろうという話を、こちらはもうリアリズムに徹して、ほらなどどこにもない、生身のガリレオ、不眠症と脱腸のおかげで、いつも赤い眼をして、よたよたと歩きまわり、召使たちをどなりつけ、ぶん殴り、大公や教皇や枢機卿たちにはへいこらし、雇い主のケチに怒りくるい、批判者たちを罵倒しまくり、そして、世界でまだ誰も知らないことを知って感動にうちふるえる、そういう姿を生き生きと、読者の目の前に描きだしてみせたのだ。
   
    マッドではない、ひとりの科学者の姿を、その魅力も欠点もひっくるめて、これほどあざやかにありありと描きだした話がこれまでにあっただろうか。天才ではあっただろう。科学者としてはついてもいただろう。しかし、一個の人間、夫、父、事業家、つまり世間から見たひとりの人間としては、及第点はまずやれない。いや、とうの昔に誰からも見棄てられていてもおかしくはない。
   
    そしてあの有名な裁判の場でのガリレオの姿。かれは科学を守ろうとしたのではもちろんない。ただひたすら異端の罪として裁かれること、すなわち焚刑にされることだけを避けようとした。ジョルダーノ・ブルーノの二の舞だけはごめんだ。そのためには何でもするつもりだった。
   
    地動説がキリスト教の教えに反すると思ったわけでもない。地動説こそは神の造りたもうたこの世界の姿を正しく説明するものだ、アリストテレスは、天動説は神の造りたもうた世界を正しく説明していない、と考えただけである。神は嘘をつかない。神が造りたもうたものを真正直に見ればわかる。これまでは人間の眼がまちがっていたのだ。
   
    だからガリレオは当初の判決文の中で、自分は善きキリスト教徒ではなかった、『天文対話』出版に際して検閲当局をだました、という二つの点だけは承服できない、たとえ焚刑にされてもこれだけは認められないと抗議した。
   
    この裁判でのガリレオの姿にどこか気高いものがあるとすれば、それは信ずるところを守ろうとしたからだろう。地動説は信ずるところではない。それはすなおに見れば誰の眼にも明らかなことで、教会がいかに否定しても、自分がいくらそれを奉じないと強弁しても、それによって地球が太陽の周りを回っている事実が消えたり、変わったりするわけではない。しかし、自分が善きキリスト教徒かどうかは、自分がそう信じ、他人にもそう認めさせるしか決定方法は無い。
   
    この裁判は歴史上最も有名な裁判のひとつだ。こんにちにいたるまで、その内容についてくりかえしとりあげられる。その理由は、ガリレオが焚刑を免れた、かれが生き残ったからだろう。地動説に対するローマ教皇庁の弾圧ということなら、まさにジョルダーノ・ブルーノは科学への殉教者としてもっと注目され、有名になってもよいはずだ。ガリレオは生き残った。「それでも地球はうごく」と言い残した。むろんこれは伝説だが、伝説の例にもれず、事件の本質をあらわしている。ガリレオが生き延びたこと自体が「それでも地球はうごく」と言っていたのだ。
   
    そして、この裁判がこうなったのは、実は木星での冒険があったからなんですよ、みなさん。ガリレオが木星に行かなかったら、かれは実は焚刑にされていたんです。ね、世の中、何が幸いするか、わからないでしょ。めでたし、めでたし。
   
    ああ、これがSFで無くて、何であろう。一人の稀有な科学者の生身の姿を描ききり、なおかつ、この科学者を当人が発見した天体の上で活躍させる。ほら話としてのSFの極致ではないか。
   
    これはもう作家としての円熟である。こういう力業を、トゥル・ド・フォースを、無理を感じさせずにやってのける。SFとしてのリアリズムだけなら、他にも同じくらいの力の持ち主は何人もいる。歴史部分だけとれば、一流ならばこれくらいは書けてほしい。しかし、この二つをシームレスにつないで、極上の歴史小説でもあり、SFでもある話を書けるのは、はたして他にいるだろうか。
   
    いないわけではない。ロビンスンもこの作品についてのエッセイであげていたシルヴァーバーグの『時間線を遡って』Up The Line は、遥かな先駆けであり、出来ばえとしても匹敵する。いや、本当にすぐれたタイム・トラベル小説は本来、歴史小説とSFの最高の形での統合なのだろう。とすれば、そうしたいくつかのすぐれたタイム・トラベル小説群に、今ひとつ、ひときわ大きな成果が加わった、と言うべきだろう。(ゆ)

S-Fマガジン 2010年 08月号 [雑誌]    今回再録された5篇を読んでまず思ったのは、浅倉さんの日本語のリズム感の確かさ。すぐれた翻訳者、いや翻訳者にかぎらず、すぐれた日本語の書き手、あるいは言語にかかわらずすぐれた書き手は、文章のリズムが良いが、翻訳者の場合、原文のリズムと自分のリズムの折り合いを、まずつけなければならない。相性というのはここに現れるけれど、浅倉さんは原文のリズムを的確に捉えることと、それを自然な日本語のリズムの中に再現することに秀でていた。誰か特定のリズムというのではない。再録の5人のリズムはそれぞれに違う。そのそれぞれをきちんと掴んでいる。それぞれを日本語の文章のリズムに活かされている。そして、なおかつ、そこに「浅倉節」とも言うべき、独自のリズムが生まれている。
   
    浅倉さん固有のリズムと最も近かったのは、ゼラズニィではないか。こういう技巧的な、一歩間違うと装飾過剰な文章を、その華麗さを保ったまま、嫌味を感じさせずに日本語にうつすのは、ある程度先天的な共感が働かないと難しいと思う。
   
    これに比べると、グラントやロバーツは、文学伝統に則っているので、むしろやりやすいだろう。
   
    ラファティとジェロームになると、どちらかというと浅倉さんがご自分のリズムに引きつけた部分が大きいように感じられる。
   
    その上で、今回、最も感じいったのはグラント「ドローデの方程式」。これはもう完璧としかいいようがない短篇を、完璧としかいいようのない翻訳に仕立ててくださっている。原文で読む気にもならない。たとえ読んだとて、この浅倉訳を読むほどに「理解」できるとも思えない。
   
    この短篇は小説、つまり書き言葉でしか表現できない表現を生みだしている。その点ではメタ・フィクションとも言える。また、これはSF以外の何ものでもない、SF以外では表現できないことを表現している。一見そう見えても、これはファンタジーではない。現実にとって科学とは何か。科学に何ができるかを掘り下げている。それは同時に科学は何をすべきか、科学の使命はどうあるべきか、の問題を扱うことにもなる。つまりこれは科学の現状への痛烈きわまる批判でもあるのだ。
   
    こういう作品をきちんと評価し、紹介する眼と舌を養いたいと思う。
   
    ラファティは雑誌掲載だけで、単行本収録がかなわなかったということで、あらためて読めるのは嬉しい。これはSFの王道のひとつであるユートピアものの変形だが、ル・グィンの「オメラスから歩みさる人びと」に通じる。ユートピアの実現には大いなる犠牲が必要であり、その犠牲は人間性と深く結びついている。人間が人間であるかぎり、ユートピアはついに夢想の中にしか存在しない。ラファティはアイルランド人であるから、これを「老人の知恵」として語る。そして、地球上のすべてのアイルランド人にとって、「アイルランド」はユートピア以外のなにものでもない。
   
    ジェロームは人間のいやらしさをラファティとは反対側から映しだしてみせる。さすが、アイルランド人をいじめつづけたイングランド人だ。たしかにユーモアではあるが、読みようによってはこれほどブラックな、真黒なユーモアもない。それをむしろしっとりと、それほどいやらしくもない話に浅倉さんは仕立てている。ひょっとすると、これを読んで無邪気に笑う読者を、意地悪く見つめている訳者の姿が見えないか。
   
    ロバーツについては、言うべきことは何もない。何度でも言うが、全篇浅倉訳で読みたかった。どこかに原稿が隠されていないものか。
   
    ゼラズニィで何が一番好きか、と訊かれれば、なんのためらいもなく「十二月の鍵」と答える。今回の再録にこれが無いのは不満といえば不満だが、今回の「このあらしの瞬間」もなかなかよくゼラズニィしていて、まずは満足。
   
    邦訳の初出1975年6月といえば、まだSFMをちゃんと読んでいたと思うのだが、これは読んだ記憶がまったく無い。もうSFMを「卒業」した気分だったのか。その前年、森さんが辞められて、隅から隅まで読みつづける気を無くしたことはあったかもしれない。SFファン交流会の二次会でも出ていたが、森さんの後、今岡清氏が出るまで、SFM の編集長は編集者というより管理人になった。というと長島良三氏や倉橋卓氏には失礼かもしれないが、たしか両氏ともミステリ・マガジンと兼任されていたし、福島、森に比べればSFについては「素人」であり、SFM は「漂流」しはじめた、という感覚は当時リアルだったことはまちがいない。
   
    これがぼくだけの感覚ではなかったことは、マイク・アシュリーのSF雑誌の歴史の第3巻 Gateways to Forever 巻末の補遺で非英語圏のSF雑誌をとりあげた際、長島、倉橋両氏を "hard-headed bussinessmen" (420pp.) と評したことにも現れている。ここは柴野さんからの情報をもとに著者が書いているので、この評価は柴野さんのものであっただろう。
   
    同時に、大学に入って、SFM より F&SF や原書に挑戦しはじめたこともあったかもしれない。しかし、当時、読みだした頃の自分が何を原書で読んでいたのかは、さっぱり思いだせない。
   
    とまれ、「十二月の鍵」の代わりに本篇がとられたことに大きな不満がないのは、本篇がいわば「十二月」の前日譚になっているせいもある。あるいは、「十二月」は本篇の語り手の生まれ変わりが、自分なりの黄金時代を、ルネサンスを発見する、あるいは見方によっては強引に引きよせる話だからだ。オリジナルの初出をみると、本篇が F&SF 1966年6月、「十二月」が New Worlds 1966年8月。おそらくはたてつづけに書かれたのだろう。
   
    読みあわせれば、この2篇の相似は明らかで、「キザ」(中村融氏)とまで言われる叙述のスタイルもそっくり。とはいえ、「十二月」と本篇は同じものの表裏で、それぞれに力点を置く位置も置かれ方も違うから、どちらもそれぞれに楽しめる。ちなみに単行本としてはどちらも『伝道の書に捧げる薔薇』収録。
   
    ついでに言えば、「十二月」に次いで好きな作品は「フロストとベータ」と「復讐の女神」。前者は New Worlds 1966/03、後者は Amazing 1965/06。どちらも浅倉さんの訳で『キャメロット最後の守護者』収録。ちゃんと調べたわけではないが、1965年から66年にかけてはゼラズニィの「大当りの年」ではないか。というより、この4篇が生まれただけで十分「大当り」だし、この4篇があれば、長篇も含めて他は何も要らないと言ってもいい。
   
    あるいはむしろ、ほぼ半世紀(!)経って、今、この頃の1960年代半ばのゼラズニィを改めて読んでみるのは面白いかもしれない。ちょうど NESFA が短篇全集を出したことでもある。まさに彗星のように、いやむしろ超新星のようにデビューして、60年代に混迷を極めて、気息奄奄となっていたアメリカSFに、颯爽と進むべき道を示した、あの熱さとかっこよさは今もなお新鮮ではないか、と、本篇を読んで思う。エリスンやディッシュやディレーニーやが変身するのも、あるいはウィルヘルム、ティプトリー、ラスやらが現れるのも、さらには「レイバー・デー・グループ」やサイバーパンクの出現も、このゼラズニィあってこそではなかったか。
   
    それにしても、当時30前の著者がこれを書きえたのは、作家の創作活動の妙とはいえ、驚異の念に打たれざるをえない。本篇の語り手の孤独、次の角を曲がった向こうに「黄金時代」があるんじゃないか、という願望とも予感ともつかない感覚は、今の年になって初めてわかる。「十二月の鍵」にしても、初読の時はよくわからなかったのが、あの何ともかっこいいスタイルに惹かれて何度か読み返すたびに好きになっていった。
   
    ディック、ティプトリー、ラファティの評価は、「新・御三家」と呼ばれてもおかしくないほどまでに固まったと思うが、60年代のゼラズニィと70年代のヴァーリィの評価は、SFへのその貢献に比べて、異様に低いようにも思う。それにはおそらくは、両者ともに長篇作家よりも中篇作家、ノヴェラやノヴェレットを最も得意とし、そのフォーマットに最も優れた作品を残したせいもあるのではないか。
   
    そして、中篇作家であるがために不当に低い評価しかされていない書き手は、案外多いようにも思う。シルヴァーバーグもそうだし、ルーシャス・シェパードもそうだ。
   
    浅倉さんへの追悼文はそれぞれに良かったが、「偲ぶ会」やSFファン交流会で話されたことと重なる部分も多かった。
   
    なかで出色はやはり伊藤典夫氏の文章で、分量からしても、つきあいの深さ、古さからも、群を抜いて読みごたえのあるものだ。氏にはぜひ、昔のことを、きちんと書き残しておいていただきたい。結局昔のことをご存知で残っているのは、ほとんど森さんと伊藤氏だけではないか。アメリカ人が「創造」した「宇宙」を日本語に植えかえる、その苦闘はぜひ読みたいと思うし、伊藤氏は当事者でありながら、中心のすぐそばにいながら、中心そのものではなかった、まことに都合の良い位置におられたわけだ。日本語SF形成期の跡をたどるには絶好の書き手と思う。
   
    追悼特集としては充実したものではあるが、浅倉さんの追悼はこれで終わるわけではない。浅倉さんの残したものの評価はむしろこれからだろう。この特集はその端緒にすぎない。
   
    「後ろ向き」のものより「前向き」の特集を、というアマゾン読者評のコメントもその通りではあるが、前に進むためにも、これまで何がなされ、何がなされなかったかを押えることは必要ではある。矢野、野田、柴野、浅倉と、日本語SFを裏で支えてきた人びとが幽明界を異にされたことは、歴史をたどりなおし、評価しなおす契機になる。
   
    今回の特集には、浅倉久志がどういう人であったか、の説明はひとこともない。ここで初めてその名前に接する人や、この名前を意識する人にはいささか不親切とも思う。その一方で、浅倉久志とは何者ぞ、と問われれば、こういう翻訳を残した翻訳者です、まず読んでくださいと言って、よけいな雑情報をあえてばっさり切った潔さも認める。(ゆ)

    牧みいめさんのお誘いで、海外SF同好会「アンサンブル」の例会にお邪魔させていただく。ファンダムとはまったく縁が無いままにこれまで来たので、そういう場にお邪魔して大丈夫かとも思ったのだが、そこはまあ亀の甲より年の功で、何とか馬脚をあらわさずにすんだ。しかし、どうやらあたしが最年長クラスなんだよなあ。
   
    Nさんが持参された Locus の最新号を拝借してパラパラ。定期購読はとうにやめているので、本誌を見るのは久しぶり。コーンブルースの伝記が出ていて、Gary K Wolf が誉めている。本人だけではなく、当時のアメリカSF界の様子もきっちり書かれているようだ。こいつは読まなくては。
   
    と言ったらみいめさんが、翻訳だけじゃなくて研究もなさるんですか。
   
    研究なんてものではないが、興味のある作家の伝記は読みたいじゃないですか。ウルフも比較に挙げているティプトリーの伝記はまことに評価が高いけれど、これもウルフが指摘するようにSF界の外の話の方を、たぶん面白く読んでしまいそうで、後回しでいいや、という気分。それに比べるとコーンブルースの伝記は、アメリカの一角でSFが地歩を固めてゆく過程も見えるのではないかと期待。そういえば、メリルの伝記も出ていたよな。
   
    それに浅倉さんお気に入りの作家のひとりとして、コーンブルースの面白さをきちんと咀嚼して伝えるためにも、伝記は押えておかなくてはならない。
   
    牧さんだって、マイク・アシュリーのアメリカSF雑誌の歴史の第2巻 Transformations の翻訳をあげられたそうじゃないですか。あれはやっぱり一番面白いところでしょう。なんといっても、F&SF と Galaxy から New Worlds にいたる、SFの疾風怒涛の時代を扱っているのだから。
   
    あそこはSF雑誌の黄金時代で、先の2誌と Astounding を中心として、どれもこれもキャラの立った雑誌が妍を競っていた。そのドラマが面白くないはずはない。これが第3巻になるとオリジナル・アンソロジーの時代になり、Asimov's の創刊はあるにしてもSF創作における雑誌の力は相対的に落ちる。
   
    ところで福島正実はホレース・ゴールドなんですよ、あの第二巻を読むとよくわかる、と思わず牧夫人に力説してしまう。福島本人はキャンベルをモデルとして、自ら日本のキャンベルを任じていたことは確かだけれど、編集者としての資質、SFに対する考え方、好みの作品の傾向、それにキャリアと、どこから見てもゴールドなのだ。『ギャラクシー』が元気だったら、SFM は『ギャラクシー』日本語版として出ていたはずであることは『未踏の時代』を見てもわかる。F&SF は選択肢の二番目だったのだ。そういえば、ゴールドの伝記も出ていなかったっけ。
   
    Terry Dowling の Amberjack も迷っているのだが、やはり買うべきか。ダウリングがまだ本邦未紹介というのでちょとびっくり。
   
    それにしても、牧真司さんはいきなりクノー『はまむぎ』のレジュメを配りはじめるし、ペレック、イシグロ、プルースト、ジョイス、ミルハウザー、ダイ・シージエなどの名がとびかい、二次会ではペレーヴィンの話題からサミット・バスの名前まで出てきて、いや刺激的な会ではある。サミット・バスはどこかで紹介したいねえ。とまれ、英訳からだいぶ時間差はあるにしても、ペレーヴィンの翻訳がどんどんと出るのはめでたいことである。うーん、本を読もうとい気力がむくむくと湧いてくるぞ。
   
    二次会でなぜか突然眼鏡の交換会がはじまったのには、これも浅倉さんが訳されたライバーの傑作中篇「影の船」を思い出してしまうのは、哀しいマニアの性か。
   
    往復には出たばかりのSFM 8月号の「浅倉久志追悼特集」を読む。こちらについてはまた後日。(ゆ)

    先週土曜日のSFファン交流会の件で書き忘れていたこと。
   
    森下一仁さんとぼくの他に牧真司さんも浅倉さんの思い出を語られてました。カナダの同人誌が日本のラファティ特集号を出したとき、浅倉さんと伊藤さんが英文のコメントを送られたのだそうです。その現物も回覧されてましたが、残念ながらぼくは拝見するチャンスがありませんでした。
   
    もう一つ、二次会で話題になったこと。浅倉さんの翻訳の師匠あるいは手本は誰だったのか。
   
    浅倉さんとて、初めは誰かの翻訳を手本とされたはずですが、それが誰だったのか、わからない。当時SFの翻訳をされていた人たちを手本にされたけしきもありません。その頃SFが好きで翻訳をしていた先輩と言えば、福島正実と矢野徹の二人がいますが、どうもこの二人に習ったとも思えない。
   
    中村さんもご指摘されていたように、矢野さんを浅倉さんは先輩として慕われ、頼りにされていました。矢野さんのご葬儀の時、弔辞を述べる浅倉さんの落胆されたご様子にはまことに痛々しいものがありました。ですが、翻訳のお手本にされたかとなると、お二人の翻訳はいささか違いが大きい。
   
    映画評論の双葉十三郎の翻訳を浅倉さんが高く評価されていたことはありますが、手本や師匠とまで言えるのかどうか。
   
    あるいは伊藤さんあたりにおたずねすればあっさり氷解するのかもしれませんが、日本語の系譜の上からも、結構大事なことではないかと思います。
   
    あるいは翻訳自体の師匠は明確な存在が無くとも、日本語を書く上で手本とされた、あるいは影響を受けた書き手はいたはずで、いずれどなたかが解明してくださることを期待します。
   
    影響といえば、村上春樹がヴォネガットの翻訳者で影響を受けた人として浅倉久志の名を挙げていないのは、やはり韜晦ではないか、というのも、酒の上の話として出たことでありました。(ゆ)

    浅倉久志さんんが亡くなられた際に書いた当ブログの記事を読まれた白石朗さんと主催者の牧夫人にお誘いをいただいて、SFファン交流会に参加してみました。

    今回は中村融さんの発案で、交流会で浅倉さんの追悼をやろうということになり、中村さんの他、白石さん、高橋良平さん、大森望さんがゲストという趣向。編集者として浅倉さんと仕事をされた白石さん、大森さんのお話がメイン、それに最も親しかった高橋さんが間の手を入れられる、という感じでした。
   
    中村さんは浅倉さん直々に翻訳の添削をしてもらったことがあるとのことで、その赤の入った手書き原稿を回覧されていましたが、実にていねいにコメントが入っていたのには驚きました。参加されていた国書刊行会の樽本さんも、かつてディッシュのベストを作られた際、浅倉さんが中の一篇「降りる」の昔のご自分の翻訳を改訂された、そのゲラを回覧されていましたが、これもほとんど真赤になるくらい、それもまことにきれいな、読みやすい赤が入っていました。
   
    浅倉さんは早川書房で通常の翻訳、作品選択の他に、新人翻訳家養成のための添削も引き受けられ、中村さんはじめ何人もの優れた翻訳家がそこから生まれているそうです。表向きは下訳者も使われず、学校で教えることもされず、お弟子さんもとられなかったわけですが、世間一般の眼からは見えにくいところで、しっかり次世代養成に関わっておられたのでした。
   
    森下一仁氏も来られていて、1984年にヴォネガットが来日した際、浅倉さん、当時のSFマガジン編集長今岡清氏、通訳の方と4人でインタヴューをしに行かれた際の話をされていました。
   
    ぼくはまあ、ブログに書いたことをごく手短かに話しただけですので、くわしくはむしろそちらの記事を御覧いただければと思います。
   
    編集担当者としてのお話を伺うにつけ、その翻訳の優秀さに加え、仕事の速さ、手間のかからなさからして、その存在そのものがほとんど奇跡に思えてきます。ほんとうに浅倉久志という人が存在し、活躍してくれたことは、日本語SFにとって、さらには戦後日本語文学にとって、いかに幸せなことであったか、つくづく、思い知らされたことであります。
   
    その思いを再確認したのは、新宿の中国料理屋に場所を移しての二次会の席で、若い交流会のスタッフの方(お名前を失念しました、乞うご容赦)が、前はミステリ系を読まれていたのが、ここ数年SFを読むようになり、翻訳があまりに読みやすいのがうれしい、とおっしゃられたこと。ミステリを読まれていた頃は、話の中に入りこむまで時間がかかったのだが、SFは設定などはずっと入りにくいはずなのに、そこでの苦労が無い、というのです。
   
    これは日本語SFの翻訳がそれだけ優秀であることのひとつの証だと思いますが、それにはやはり浅倉久志、伊藤典夫の存在が大きい。この二人がひじょうに高い水準で日本語SFの翻訳を供給してきた結果、後続の日本語SFの翻訳者たちはそれを目標にせざるをえなくなったわけです。あのお二人の仕事と比べて恥ずかしくない仕事をしなければならない。むろん、肩をならべることは簡単ではありませんが、少なくともそこに向かって努力するようになります。
   
    ミステリでは幸か不幸か、そういう標準になるような翻訳家はいませんし、総体でみればSFよりも点数も多いですから、全体として質が下がる傾向があります。その二次会の席でも出ていましたが、冷静に見ればかなりの「癖」がある翻訳が、それに慣らされてしまったのか、あるシリーズについては「標準」とされてしまう例もあります。翻訳権のある同時代作家の翻訳の場合、基本的に一種類の翻訳しか読者は読めませんから、やむをえないところはあるにしてもです。
   
    浅倉、伊藤の存在はそうした「バイアス」を修正する役割も果たしてきたのでしょう。点数の多さ、作品の幅の広さ、さらには仕事の進め方で、お二人の中ではやはり浅倉さんの翻訳が手本とされるケースが多いと思われます。
   
    お仕事の幅の広さという点で、中村さんが強調されたことのひとつが、浅倉さんのいわゆる「ユーモア・スケッチ」もののお仕事。あれは浅倉さんの独創による、いわば新ジャンルであり、浅倉さん自身、愛着と自信を持っておられたものである、分量からいっても、翻訳者としてのほぼ全キャリアに渡って続けられたことにしても、SFとならぶ、浅倉さんのいわば「別棟」のお仕事として評価されるべきであるとのご指摘は眼からウロコでした。
   
    今月発売のSFマガジンは浅倉久志追悼号で、識者の選んだ浅倉さんの翻訳の再録が柱の一つになるそうです。また、単行本としても、浅倉さんのお仕事を集めたアンソロジーも予定されているとのこと。
   
    明治以来、日本語の、特に書き言葉は翻訳によって作られてきました。浅倉久志の訳業はそのいわば本流の一角、それも小さくない一角を担うものとして、これからもくり返し賞味検討されるに値するもの、との想いを新たにしたことでありました。
   
    まことに楽しい機会をつくっていただいた、白石さん、牧さんにあらためて感謝。(ゆ)

    テッド・チャンを初めて読む。なるほど、凄い。
   
    ティプトリーを初めて読んだ時の衝撃が蘇える。あるいはヴァーリィ。またゼラズニィ。ヴォクト、ディックからコードウェイナー・スミス、ゼラズニィ、ヴァーリィ、ティプトリーと続くSFの系譜の現在。そのどれよりも成熟した作品。
   
    バランスが完全に崩壊しながら、まさにそれゆえに、そしてそのゆえだけに、完璧にバランスがとれている。ジャンクの手法。中庸や常識とは無縁である。その真骨頂は、語り手が自らの「頭脳」を自ら解体し、内部を覗きこむ、その微に入り、細を穿った描写。それによって「宇宙の真理」が洞察される。一連の洞察が爆発する時の、突破の快感。SFとは、こうした作品を生みだすために生まれ、展開されてきたジャンルなのだ、と思わせる。
   
    宇宙が存在し、我々が存在することの奇蹟。宇宙自体が本質的に内蔵する「存在の耐えられない軽さ」を実感し、その軽さと、そして存在自体を奇蹟として喜ぶ。
   
    しかもだ、我々は我々自身の活動によって「宇宙の熱死」を促進し、確実にしている。宇宙がクローズドであるかぎり、その宿命はまぬがれない。環境問題とは畢竟閉体系に固有の問題であり、しかも体系が閉じているかぎり、根本的解決策は無い。解決策は唯一つ、系を開く、外へ出る、しかない。
   
    これをSFではない手法でやろうとすれば、一千冊の本を費してもここまでの精度に達せられるかどうか。読書による快楽として最上のものを体験しながら、深いふかい哲学的思索に導かれる。ただ面白いだけでは、娯楽として十分でない。深く考えさせて初めて、エンタテインメントとしても一人前なのだ。そして小説の形でそれができるのは、おそらくSFだけなのだろう。そして、ひょっとすると、それが最も効果的にできるのは、長篇ではなく、中短編なのだろう。この作品には、無駄な言葉、フレーズがただのひとつも無い。また、作品を成立させるための要素として足らないものもまたひとつも無い。ぎりぎり最小限で、しかもそれで十分。これ以上長くはできないし、また短くてもいけない。
   
    これを冒頭にもってきた『2008年度年刊SF&ファンタジー傑作選』の序文で、編者のジョナサン・ストラハンが、ジャンルの有効性と力を再確認し、あえてジャンル内に対象を絞ると宣言しているのは、感慨深い。かつて、もう40年も昔、ジュディス・メリルはジャンルの力を再発見するためにジャンルを解体してみせた。その大いなる結実のひとつがここにある。SFとは一見閉じているように見えて、その実、常に外部に開いているクラインの壺だと、こういう話を読むとあらためて思う。あるいは絵の「内」と「外」、「見る者」と「見られるもの」の境界が融解するエッシャーの作品。
   
    ひょっとすると、この宇宙、この話の宇宙も、我々の宇宙も、同じく一見閉じているように見えて、「外」に開いているのかもしれない。「暗黒物質」「暗黒エネルギー」は、その「外」からやってくるとしたら……。(ゆ)

ぼくがカンガルーに出会ったころ    毎度のことで恐縮ですが、本日配信予定の今月号は、諸般の事情により、遅れます。来週火曜日ぐらいには配信できればと思っています。
   
   
    事情のひとつは編集部(ゆ)が師と仰ぐ翻訳家・浅倉久志さんが今週日曜日に亡くなられたことです。こちらが勝手に師だと思っているので、ご本人は師などという柄ではないとおっしゃるでありましょう。
   
    ここ2、3年は新しいお仕事はなかったものの、人が生きているのと死なれてしまうのには、決定的な違いがあります。ご病気であったとも知らず、ネットのニュースで死亡記事を見つけた水曜日の夜から、何も手につかない状態で、唯一のご著書『ぼくがカンガルーに出会ったころ』をあらためて読みなおしたり、お仕事の飜訳をぱらぱらやるつもりが思わず読みふけってしまったり……独りで「送る」作業をしていました。
   
    まだ、おちついた状態にはほど遠いのでありますが、3日連続でブログを書いたりして、ようやく当初のショックは少し薄れてきて、日常がもどりつつあります。
   
    アイリッシュ・ミュージックとSFとどういう関係があるのだ、と言われれば、(ゆ)の中ではまったくシームレスにつながっているので、そう訊ねられるほうが不思議なのですが、ではこういう関係だ、と答えようとすると言葉につまります。ただ、音楽を聴いたり、周辺情報を集めたりする背後にはSFやこれを含む幻想文学を読むことがあり、また文学を読むことの裏には音楽を聴くことがつながっていて、どちらも欠かすことはできません。時にどちらかが大きくなってもう片方が隅に追いやられることはあっても、消えることはありません。ひょっとするとその関係を言葉で表わすことが、これからの(ゆ)のテーマになるのかもしれません。
   
    スコットランド音楽の「ボス」ディック・ゴーハンやラウーのエイダンもSFのかなりなマニアだそうですし、マーティン・ヘイズもSFが好き、というのをどこかで読んだか聞いた覚えもあります。
   
    アシモフやハインライン以上に、アメリカSFの屋台骨を支えた大作家にポール・アンダースンがいます。浅倉さんが大のお気に入りであり、尊敬する作家でもありました。おそらく最後のお仕事のひとつがそのアンダースンの『地球帝国秘密諜報員』です。遥かな未来、地球人が宇宙に進出して築いた大帝国は爛熟して衰亡の途をたどりはじめています。その滅亡を一刻でも延ばそうと奮闘する情報機関員ドミニック・フランドリーの、デカダンな活躍を描くシリーズの第一作。ジェームズ・ボンドよりも先に登場して人気を得た作品群です。
   
    アンダースンはデンマーク人の血を引いていて、デンマークをはじめとする北欧の文化にも造詣が深く、作品の中にも様々な形でとりこんでいます。たとえば、こんな一節。

   
    彼女はローアの演奏もできた、十二の第一弦の上を指先が踊りまわり、そのタッチで第二弦の共鳴音が鳴りひびく。はじめて地球人がヴィクセンの荒れ地を開拓し、自分たちの故郷を築きあげた、あの古い勇敢な時代から伝わるすべてのバラッドを知っているらしい。それを聞くのはたのしかった。
    『地球帝国秘密諜報員』214pp.


    ヒーロー、フランドリーが、異星人に占領された植民惑星ヴィクセンに、そこから唯一人脱出したヒロインとともにもどる途中の描写です。ローアはもちろん架空の楽器ですが、共鳴弦があるところ、北欧の起源を思わせます。ヴィクセンにその昔入植した人びとはヴァイキングの遥かな裔だったのかもしれません。
   
    アンダースンに言わせれば、デンマークはスコットランドとならんでバラッドの伝承が現代まで続いたところ。その伝承バラッドを基にしたという作品もあります。
   
    あるいは浅倉さんのお仕事を追いかけることで、ヨーロッパの伝統音楽とSF&ファンタジーのつながりが、思わぬ形で浮かびあがるかもしれません。(ゆ)

    『ぼくがカンガルーに出会ったころ』巻末の飜訳作品リストで読んだことのあるものをチェックしていて、妙なことに気づいた。長篇の飜訳をほとんど読んでいない。単行本でもオールディスの『爆発星雲の伝説』とか、ゼラズニィの『キャメロット最後の守護者』などの中短編集、あるいはメリルの『年刊SF傑作選』のようなアンソロジーばかりなのだ。浅倉さんが訳している長篇は原書で読むか、読んでいない。ディックも長篇はほとんど読んでおらず、中短編ばかりだ。一番長いのはヴァンスの『竜を駆る種族』かもしれない。
   
    これが伊藤さんだと、まずクラークの『2001年』があるし、ディレイニーの『ノヴァ』『アインシュタイン交点』もそうだ。

    とすると、中短編を読む楽しさを、ぼくは浅倉さんに教えられたことになる。浅倉さんご自身、あまり長いものはお好きではなかったようで、三部作などは願いさげとおっしゃるのを耳にしたこともある。エフィンジャーのものも、はじめは1冊ものだというので引き受けたんですけど、と言われた。
   
    SFを読みだしたはじめは長篇ばかりだったから、中短編を読みだしたのは『SFマガジン』に出会ってからのはずだ。『SFマガジン』の存在を知り、初めて買ったのは1970年10月号だった。編集長はすでに二代目の森さんになっている。これを買ったのはやはり友人が学校に持ってきたのをぱらぱらと見たためだが、最大の動機は連載中の石森章太郎の『7P』を読んだためだった。

    SFM は断続的にコミックの連載をしているが、『7P』はこの直後に連載される手塚の『鳥人大系』、ずっと後年の萩尾望都『銀の三角』と並ぶベスト作品のひとつと思う。タイトル通り、毎回7ページ読切のショートショート。擬音と絵だけでせりふが無い。そして毎回有名なSF作家へのオマージュとして描かれている。この1970年10月号の回は「ジュール・ヴェルヌに」と題されていて、もう何度読んでも笑ってしまう大傑作。一読、これは持っていたいとその日の午後、本屋に走った。
   
    『カンガルー』巻末リストによれば、この号に浅倉さんはゴア・ヴィダールの「ある小惑星への訪問」を訳されている。読んでいるはずだが、まったく記憶に残っていない。翌月はレスター・デル・リイの「親切」があるが、これも全然覚えていない。翌1971年5月のオールディス「ある爆発星雲の伝説」は、単行本での印象が強い。翌6月号のテッド・トーマス「継承の日」も記憶がない。そして、その翌月7月号のコーンブルース「暗い潮を刈れ」が強烈だった。
   
    この中篇邦訳は単行本収録が無いようだが、コーンブルースの傑作のひとつだ。コーンブルースは浅倉さんお気に入りの作家の一人だったはず。わが国では過小評価されている作家のひとりではある。
   
    浅倉訳はさらに8月号のル・グィン「九つのいのち」とシルヴァーバーグ「憑きもの」と続いて、シルヴァーバーグにやられた。この号は最初のヒューゴー、ネビュラ賞特集で、この2篇もその一環だった。もっともこの号ではかのエリスン最大の名作のひとつ「少年と犬」があるし(訳はもちろん伊藤さん)、半村良の「農閑期大作戦」なんてダークホースもあった。ちなみに、この前後、半村と、まだまっとうな小説を書いていた荒巻義雄の二人が毎号、力の入った中篇を載せていて、あれをリアル・タイムで読めたのはやはり幸運であろう。その中核部分は半村は『わが故郷は黄泉の国』、荒巻は『白壁の文字は夕陽に映える』にまとめられることになる。
   
    とはいえ、この辺では訳者の名前までは頭は回らない。とにかく毎号、作品を読むのに夢中だし、訳者が誰かわかってもだからどうしたというくらいなものだ。では、浅倉久志という訳者の名を意識した初めは何か。
   
    どうもそれは同じ年の『NW-SF』4号に掲載されたディックの「電気蟻」らしい。この短篇はやはり後に浅倉さんが訳される「このけだるい地上に」とならぶディックの最高傑作と思うが、この雑誌にディック?という衝撃と作品自体の衝撃とが重なって、翻訳者の名前もまた記憶に刻まれたようではある。
   
    そしてこの人の訳す話はおもしろいという印象が決定的になったのは、翌1972年8月号のラファティ特集だった。
   
    70年代はじめ、高校生の頃に『SFマガジン』とメリルの『年刊SF傑作選』を読んだことが、結局ぼくのSFの基礎教養を作ったことになる。SFに出会ったはじめはたいていそうだろうが、とにかく読むものすべてが面白い。しかしそれに加えて、この頃の SFM は、森編集長のもと、新機軸を次々に打ち出していたし、また掲載作品の質も、オリジナル、飜訳、総じて高かった。今から振り返っても、この時期の SFM の質の高さは、雑誌の黄金期と言っていいと思う。その質の高い雑誌を毎月表紙から裏表紙まで、舐めるように読んでいれば、SFの DNA が刷り込まれて消えなくなるのも無理はない。
   
    浅倉さんの訳された中短編はその中で、どこか道路標識のような光を放っている。これまでに挙げたものに加えれば、1972年3月号のライバー「影の船」。翌4月号のエリスン「世界の中心で愛を叫んだけもの」。さらに5月号のスミス「アルファ・ラルファ大通り」。1974年3月号のリード「ぶどうの木」。4月号のディック「このけだるい地上に」。11月号のラファティ「せまい谷」。1975年10月号のティプトリー「接続された女」とル・グィン「オメラスから歩み去る人々」。さらにはバックナンバーを遡って読んでいった1970年1月号のアシモフ「ホームズ・ギンズブック装置」。2月号のゼラズニイ「十二月の鍵」。3月号のセイバーヘーゲン「赤方偏移の仮面」。1968年7月号のナイト「異星人ステーション」。
   
    その一連のお仕事の、いわば仕上げにビショップが来る。1975年4月号の「キャサドニアのオデッセイ」と翌月号の「宇宙飛行士とジプシー」。
   
    これは勝手な推測だが、浅倉さんにとって心残りがあったとすれば、マイクル・ビショップがこの国で正当な評価を受けていないことではないか。かれの初期中短編に対する「偏愛」を、どこかで書かれていたように思うのだが、今はみつからない。
   
    浅倉さんは黙って飜訳されるだけで、ある作家がいかに面白いかを口角泡を飛ばしてしゃべられることはなかった。もう少し大きな声でしゃべっていてくれたら、と思うこともあるのだが、それはむしろ、我々がやるべきことかもしれない。浅倉さんがお好きだった作家たちで、不当な評価を受けている、あるいはそもそも評価を受けていない人たちについて語ることだ。
   
    コーンブルースやビショップはさしずめその筆頭だし、ライバー、ハリスン、ヴァンスだって、邦訳点数の割には、どこか後景に押しやられてしまっている。アンダースンのように、日本語SFの揺籃期にもてはやされながら、ある時期から評価と人気が急落してしまった人もいる。アシモフやハインラインがあれだけ読まれるのなら、アンダースンはもっと読まれてよいはずだ。
   
    新しい書き手や、今ばりばりの現役の紹介、評価とは別に、見過ごされてきた人たちをきちんと読むことにも収穫は多い。いや、それでしか見えてこないこともある。浅倉さんは、そういうことも教えてくれている。
   
    それにしても、SFM と並行して『ミステリ・マガジン』にもこれだけ訳されていたとは。当時はなにせSFにのぼせあがっているから、本屋では隣にあったはずの MM など、まったく眼に入らなかったのだ。(ゆ)

    翻訳者が死ぬことは、作家が死ぬこととは似て非なるところがある。中野好夫や前嶋信次、上村勝彦ぐらいになれば、翻訳者というよりはむしろ学者であって、学者としての死に方をする。
   
    飜訳専門、それも大文学ではない、エンタテインメントと目される分野の飜訳者が死ぬことは、形だけとれば世間一般の人、例えば学校の先生や近所の商店のオヤジが死ぬのと、そう変わらないのかもしれない。家族にしてみれば、死んだ本人の仕事が世間でどう評価されているか、それが他人の人生にどのような影響を与えているかについては、一部上場企業の部長クラスの家族ほどにもわからないこともありえる。たまたまある仕事が世間の耳目を集めたとしても、表に出るのは原著者の名前であって、翻訳者の名前に注目するのは、同業者や編集者ぐらいのものだし、そういう注目は本人はともかく、家族や親族には伝わりにくい。つまり、飜訳者のイメージは、家族など直近の人びとと、世間とでかけ離れることになる。
   
    とすれば、翻訳者としての浅倉さんの追悼は、ご位牌の前で線香の一本も上げるよりは、公の場で、お仕事に即してやるのがむしろふさわしいのだろう。飜訳家・浅倉久志の仕事をあらためて読みなおし、様々なコンテクストにおける位置を再確認し、日本語SF発展に果たした貢献の内実を探ることだ。
   
    すぐれた翻訳家ということなら、浅倉さんだけではむろんない。SFを主な仕事場としている人だけでも、伊藤さん、深町さん、小尾さん、矢野徹、柴野拓美、福島正実、野田昌宏、沼沢洽治などなど、質も量も浅倉さんに匹敵する人はいる。けれど、浅倉さんの影響は、どこか違う。この人のやっているものなら、飜訳だけでなく、作品の質も保証される、という信頼感だけでもない。何かもっと大きなものが、いわば「単なる一翻訳家」のレベルを超えたものが、あるようにも思える。言ってしまえばSFというジャンルそのものへの信頼感を、浅倉さんの仕事は醸成していたのではないか。あるいはその醸成の、かなり大きな部分を担っていたのではないか。
   
    日本語SFを定着させる土台を築いたのが福島正実であり、福島を黒子として、表舞台にあって創作の面でジャンルへの信頼感を築いたのが星、小松、筒井、光瀬など、いわゆる第一世代と呼ばれる人びとだった。とはいえ、SFは外国起源のジャンル、フォーマットであって、日本語への導入当初は飜訳がほとんどだ。日本語SFはまず飜訳で生まれる。
   
    浅倉さんは、SFの翻訳家としてはいわば第二世代だ。『SFマガジン』やハヤカワSFシリーズの初期を担った翻訳家第一世代は、それ以前から飜訳を業としていた人びとだ。ということはSF以外の、ミステリやスリラーや一般の小説の訳者だった。そうした翻訳家を口説いてSFの飜訳を頼む苦労を、福島正実は回想している。それに対して、始めから志向してSFの飜訳をやりはじめた最初の世代が伊藤さん、浅倉さんだった。この二人が、「単なる」翻訳家ではない、より大きな存在感を持っているのは、たぶん、そのせいだ。福島正実が据えた土台の上で育ち、紹介の「実務」を表立って担当した。
   
    伊藤さんは飜訳そのものもさることながら、「SFスキャナー」での仕事が大きい。飜訳以前の、文字通りの紹介だ。いわば切込隊長である。浅倉さんはその後にあって、伊藤さんが紹介したものを着実に日本語にしてゆく。一種の役割分担が期せずしてできていたようにも思える。そしてその日本語化の担当として浅倉久志を得たことは、SFにとっても日本語にとっても、まことに幸運だった。質の高い日本語によって、質の高い、面白い作品を読むことができるからだ。
   
    一方で浅倉さんが面白がったもの、紹介に熱が入ったものは、SFにとってコアをなす部分、SFのエッセンスが濃縮されて詰まっているものが多かった。これをして浅倉さんはツイていることでは東郷平八郎と肩を並べると言えるかもしれない。
   
    かくて浅倉さんの日本語によってSFの面白さを教えられた者としては、その恩返しは後に続く世代に対してSFの面白さを伝えることしかないだろう。もともと日本語で書かれたすぐれておもしろいSFに事欠かなくなったとしても、海外の作品の質が落ちているわけではない。日本語のオリジナル作品に、海外では生まれえないものがあるのと同様、日本語の発想からは生まれえない作品がある。そして、多様性ということでは、日本語はまだまだ英語の敵ではない。先頃、日本語で書いたイラン人の小説が賞をとって話題になった。英語では同じ現象は百年前から、はるかに大きなスケールで行われている。文化はある言語圏の内部だけで完結しようとすれば衰微する。
   
    何をおもしろがるかは人それぞれであるならば、ぼくが面白いとおもうものは、これは面白いと自分で言わねば、誰かが代弁してくれるはずはない。
   
    浅倉さんはシャイな人だった。シャイというのはこの場合、恥ずかしがるのとは違う。自分の行為、感性には自信があり、誇りもある。しかし、そのメリットを人に押しつける無神経さは持ちあわせていない。そう、浅倉さんはつぶやいていたのだ。ライバーやアンダースンは面白いですよ。ラファティなんて作家がいましてね。ハリスンやヴァンスにはこんな話があるんですけど。浅倉さんの飜訳はそんなつぶやきだった。
   
    そのつぶやきにもう一度無心に耳を傾ければ、SFの面白さ、SFを読むこと、海外のSFを読むことでしか味わえない面白さが蘇えってくるだろう。
   
    こう書いてみて何となくわかったような気もする。音楽において松平維秋さんが師であったように、SFにおいては浅倉さんが師であったのだ。その死に直面して狼狽がおさまらないのは、たぶん、そのせいだ。死なれてみて初めてそのことに気付くというのもずいぶん間抜けな話だが、それくらい大きな存在であったのだ。
   
    とすれば、松平さんと同じく、残りの一生をかけて追悼をしてゆくことが、不肖の弟子のやるべきことになる。(ゆ)

    ヴォネガットの訳者という人もいるだろう。ディックの訳者だという人もいるはずだ。ポール・アンダースンの作品の魅力を浅倉さんの訳で知ったという人は、そう多くないかもしれない。初めて「ホーカ」シリーズを読んだときの衝撃。
   
    誰よりも、ジュディス・メリルとJ・G・バラード、そしてフリッツ・ライバーだった。メリルの『SFに何ができるか』と『年刊SF傑作選』とりわけ最後の3冊、第5、6、7集。バラードの『終着の浜辺』までの初期短篇集。ライバーの「ファファード&グレイ・マウザー」。

    他にも、ジャック・ヴァンス『竜を駆る種族』。セイバーヘーゲン「バーサーカー」。ディレイニー「スター・ピット」。ゼラズニィ「十二月の鍵」。ティプトリー「接続された女」。もちろんラファティ。
   
    ぼくにとってSFとはどういうものか、メリルの本のタイトル通り、SFには何ができるのか、を作品の形で教えられた、その訳者が浅倉さんだった。伊藤、浅倉というけれど、伊藤さんはぼくにとってはロバート・F・ヤングとブラッドベリの訳者なので、その飜訳から受けた影響の大きさでは圧倒的に浅倉さんなのだ。
   
    浅倉さんの前に、そもそもSFに引きずりこんでくれたのは沼沢洽治だった。中学3年のときだ。たまたま友人が持っていた沼沢訳の『宇宙船ビーグル号の冒険』を何の気なしに開いて、その冒頭の一文に脳天一発。それから沼沢訳を読みまくった。同じヴァン・ヴォクトの『武器店』『非A』、アシモフの『暗黒星雲のかなたに』『宇宙の小石』、ベスター『分解された男』、クラーク『地球幼年期の終り』。
   
    そうした作品の奥に、より味わいの深い、読むことで脳がよじられるような、住む世界とそこに住む自分が変わってゆくような、もう一つのSFがある。それを教えてくれたのが浅倉さん、ということになる。
   
    その体験を追いかけているうちに、いつのまにか、知らず知らずSFからはずれて、拡散してきてしまった。SF自体が型にはまっていったこともあるが、「世界が変わる」体験をさせてくれるのはSFだけではないことに、気がついてしまったのだ。
   
    『ぼくがカンガルーに出会ったころ』巻末の飜訳リストを眺めると、浅倉さんご自身のお仕事も、1980年代以降はSFの本流からははずれていったようにみえる。ゼラズニィ、ヴァーリィ、ティプトリー、ラファティなどをがんがん訳されていた頃にくらべれば、新たな作家の紹介はエフィンジャーとギブスンくらいだ。それに、エフィンジャーはともかく、ギブスンは黒丸さんのあとを受けられるのは浅倉さんしかいないという事情だった。
   
    翻訳者が依頼を受けてする性質の仕事である以上、それは浅倉さんのせいでは必ずしもないだろう。しかし、翻訳者の仕事は全部が全部、受け身であるわけでもない。翻訳者自身が有形無形に発するメッセージも作用する。浅倉さんご自身も、どこかでSFだけではおさまらなくなっておられたのではなかったか。
   
    と無理矢理自分の体験に引きつけたくなるのも、どうしていいか、ちょっとわからず、何も手につかないからだ。矢野さんが亡くなられた時にもこうはならなかった。柴野さんはむしろ間接的な関係だった。野田さんは遠く仰ぎ見ていた。黒丸さんの時はショックではあったが、性質がちがった。
   
    浅倉さんを失ったことに、なぜ、こうもうろたえるのか。わからないままに、何かをしなければならない、としきりに思う。浅倉さんを送るために、何か、具体的な、カラダとココロを駆使するようなことをしなければならない。浅倉さんの仕事を継ぐ、などというおこがましいことではない。もっと、個人的なことだろう、たぶん。
   
    浅倉さんの仕事の復習、だろうか。もう一度、かつて血を湧きたたせてくれた飜訳の数々を読みなおすこと、だろうか。今度は原文と対照させながら、その飜訳の技を確かめることもできる。
   
    確かにそれはやらねばならない。しかし、復習で終わるというのでは、やはり送ることにはならない。その先は、その次は、何か。
   
    ぼくだってそんなに先があるわけではない。むしろ、浅倉さんより時間は限られているはずだ。そう思うとなおさらうろたえる。
   
    今はただ、ご冥福を祈るしかない。浅倉久志さん、そして大谷圭二さん、まことにありがとうございました。まずはごゆっくりお休みください。(ゆ)

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