クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

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 アマゾンがデスクトップ版の Kindle for Mac を新版にした。従来のものは Kindle Classic と呼んで、間もなく使用できなくするらしい。この新版はアマゾンで買ったもの以外の mobi ファイルを受けつけない。アマゾン以外で買ったり、ダウンロードしたりした Kindle 本もかなりな数あるが、それらは認識しない。新しい本は Send to Kindle を使えとあるのだが、使おうとすると、これまでは問題なく Kindle で読めていた本が、このフォーマットはサポートしていません、と出る。デスクトップ版でこういう態度に出たということは、iPad OS、iOS 用でも同様だろう。

 そこで一度試したもののユーザー・インターフェイスが気に入らなくてお蔵入りさせていた Calibre をひっぱり出した。新しくなっていて、UI もだいぶマシになった。それよりもこれは mobi を epub に変換できるはずだ。試しにやってみると、Lo and behold!、みごとに変換してくれる。変換は MacBook Air (M1) でやるが、「ブック」で一度開けば、iPad mini でも iPhone でも開ける。よしよし、アマゾンが自社以外で入手した電子本は占めだすというのなら、mobi ファイルで持っている本は全部 epub に変換して読もう。

 電子本のメリットはいろいろあるが、配布元の意向次第で読めなくなるのは問題だ。だからできるかぎり紙の本を買うのだが、それができなくなりつつある。洋書の話だ。

 どうしても新刊で欲しいものは別として、従来洋書は一番安い版を探して買っていた。ほとんどは BookFinder で検索して一番安いもの、たいていは古書を買っていた。その方が電子版より安かった。それがパンデミックによって送料が上がり、さらに円安である。送料含めて1冊2,000円を切るのは稀だ。こうなると電子版より高いことが増える。

 新刊は完全に電子本の方が安い。しかし小説はともかく、ノンフィクション類で図版や写真が入っているものは電子版では見にくい。小説でも地図が重要なファンタジーはできるだけ紙で欲しい。地図だけ別にウエブ・サイトなどで公開してくれている人もいるが、まだ少ない。

 電子本は好きではない。上記以外にも、まず画面で読むのが眼に辛い。国籍で買えないことがある。人に貸したり、あげたりできない。読むのにツールと電気が要る。

 買うときは Apple Bookstore、Kindle ストア、楽天 kobo ストアで探し、一番安いものを買っていた。しかし、今後は Kindle はそれ以外には無い場合のみ買うことになるだろう。

 電子本を読むのはもっぱら iPad mini である。重さ、サイズがちょうどいい。そして、すべての電子本が読める。ePub のみならず、mobi も、kobo もアプリを入れればそのまま読める。

 iPhone は画面が小さすぎて、長時間見ていると頭が痛くなる。スマホがデフォルトなのだろうか、ゲームも映画もスマホで見ている人も巷にはかなりいるが、ああいうマネはとてもできない。

 すべての本に電子版があるわけでもない。電子版が出ているのは今世紀に入ってからの本か、古くて著作権が切れたタイトルのどちらかだ。20世紀後半に出た書物の電子化が少ない。古典と目される作品は電子化されていても、ちょっと外れるとダメだ。安田均さんは1960年代、70年代のSFペーパーバックは日本で一番集めたと思うと言っていた。宝物だ。

 雑誌はまた話が別だ。雑誌掲載のみで単行本化されていない中短篇は厖大だ。今世紀初めまでの雑誌は紙のバックナンバーを読むしかない。古書市場に出てこないものもある。古い雑誌に載った小説の著作権はもともと電子化は含まれていないし、著者にもどっているのが普通だし、物故者も増えてくるから、電子化はこれからも進まないだろう。

 何らかの形で単行本化されるものは氷山の一角に過ぎない。そして雑誌初出でしか読めない作品にも、忘れさられるままにするのはもったいないものがたくさんある。SFFのようなエンタテインメント系の作家の中短篇を網羅した全集が出ることは例外に属する。C・M・コーンブルースやジュディス・メリル、トム・リーミィやウォルター・M・ミラー・ジュニアのような作品数の少ない書き手は別として、ディックやスタージョン、セラズニィにシェクリイぐらいだ。シルヴァーバーグは初期に書きまくったものは選集になっている。ルグィンは進行中。アンダースンは中断している。ある作家の全作品を読もうとすれば、ほとんどは雑誌掲載のものを1本ずつあたるしかない。

 F&SF誌は定期購読をやめたことがないから、30年分はある。Asimov's も創刊から数年分はある。死んだ時、こいつらをゴミにするのはもったいないが、どこか、もらってくれるところはあるだろうか。

 電子本のメリットにはもう1つあると最近気付いた。やたらに本を買いこんで積読を増やすことが減った。なくなったわけではないけれど、ブツを買うのは今年に入って激減した。電子本が出ていれば、手許に置いておく必要がないからだ。読みたいときに買える。今のところはではあるが。洋書は買わなくては読めない。だから、とにかく手許に置いておかなくてはという心理も働いて、読めるはずがない量の本を買いこんでいた。その分が大幅に減った。ちょっと寂しくはあるが、やはり良いことではある。(ゆ)

とくに、すでに読み終わったキンドル・ブックの魅力は
まったく恐ろしいほどの速さで劣化する。
(そこは、音楽の電子ファイル化とはぜんぜん感触が違う。)
裏をかえせば、紙の本はやっぱりとんでもないメディアだ。
文字情報以外の膨大なディテールが意識下に働きかけてくる、一個の宇宙。
紙の本が家の中で場所をふさぐのは、「物質」であることより、
読み終わっても本としての魅力がたいして褪せないことが原因なのだ。
それどころか永遠に読まずに終わっても、
そこに在るだけでチャーミングなんだから始末に負えない。
from「菊坂だより」@みすず書房ニュースレター no. 86 (2011/10/27)


    確かにその通り。
    
    と一度はうなずくのではあるが、しかし一方であの本はどこにいった、と探しまわる必要が無い、めざす本が即座に出てくる、というのはまた別の魅力だ。
    
    音楽もそうだが、デジタル化されることで、ソフトウェアつまり本の中身と、ハードウェアつまりモノとしての本が分離する。「キンドル」が味気ないとすれば、中身だけの味気なさではあろう。
    
    とはいえ、いったん分離されてみると、やはり本質的なのは中身であって、モノとしての魅力はまた別のものなのだ、と気がつく。
    
    読みおわって魅力が劣化するとすれば、それはキンドルのせいではなく、その中身そのものの魅力がそういう性格を備えているからではないか。
    
    中身のつまらない本は、物質としてもやはりつまらない。(ゆ)

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