03月19日・土
外出して、 WiFi が届かないところに出ると、新しい iPhone のモバイルデータ通信ができない。PDP 認証に失敗というアラート。WiFi がつながったところで検索すると、APNプロファイルが認識されていないのだった。帰って、WiFi につながったところで APNプロファイルをインストール。ファイルそのものはすでに iPhone の中にあったようだ。SIM をあらかじめ移してから、データ、設定などを移行すると、APNプロファイルもインストールされるのだろうか。とまれ、これで無事携帯電話が通る。
##本日のグレイトフル・デッド
03月19日には1966年から1995年まで、7本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。
1944のこの日 Tom Constanten がニュー・ジャージー州ロング・ブランチで誕生。生まれたのは当時両親が住んでいた東部だが、両親のルーツはベイエリアで、コンスタンティンも結局ベイエリアで音楽活動を本格的に始める。
フィル・レシュのデッド以前の音楽仲間で、1968年11月23日に初ステージ。1970年01月30日を最後のステージとして離脱。もっとも1970年2月以降もゲスト扱いでショウには参加している。たとえば《Skull & Roses》と《Ladies & Gentlemen》のもとになった1971年04月のフィルモア・イーストのショウでは、かなり活躍している。
コンスタンティンがグレイトフル・デッドの正式メンバーであった時期はバンドは7人編成で、バンド史上最多である。ピグペンは鍵盤から解放され、ヴォーカルとハーモニカに専念する。
コンスタンティンはピグペンの健康が悪化して、ショウを休むことが増えたためと、音楽の上でより質の高い鍵盤が必要とバンドが判断したために誘われた。主導したのはここでもレシュと思われる。コンスタンティンはクラシックの訓練を受け、音楽の志向としてはデッドが進もうとしていた方向とは異なるものを持っていた。そのことによって結果的にはデッドの音楽がより重層的になり、豊饒になったという効果はある。が、コンスタンティン本人にとっては必ずしも幸せなものではなかったらしい。
ビル・クロイツマンは回想録 Deal の中で、コンスタンティンがリハーサルではすばらしい演奏をするが、本番ではそれに相当する、本当に全開した演奏はついにできなかった、という。他のメンバーにとってリハーサルと本番の違いがどのようなものだったかは面白い問題だが、ここでも後の鍵盤奏者たちが例外なく感じる疎外感があったのかもしれない。ガルシア、レシュ、ウィア、クロイツマン、ピグペンはアシッド・テスト以来、緊密な演奏をしてきている。1966年から67年頃まで、バンドがヒマさえあれば練習をし、あるいはゴールデン・ゲイト・パークでの即席のギグをしていたことは、ロージィ・マッギィの回想からもわかる。そうして培われた関係はリハーサルと本番の間に、他の人間には伺いしれない位相の転換を生んでいただろう。しかもドラムスとは異なり、鍵盤はメロディや即興で表に立つことも求められる。
コンスタンティンは自らの意志でバンドを離れた唯一の人物であり、歴代鍵盤奏者で唯一の生残りでもある。デッド世界に完全に溶けこむことはついに無かったのだろう。立場も資質も異なるが、後年のブルース・ホーンスビィに位置づけや役割が似てもいる。音楽的にデッドのものと相通じるところではホーンスビィはコンスタンティンよりは大きかったようだが、かれも完全にデッド世界に溶けこむことは無かった。いわば、半歩離れたところからの貢献であり、それ故に効果的な貢献となりえた。
キャリアの初めと終りに、相似た役割の鍵盤奏者を擁したのは、偶然だろうか。しかし、ことデッドに関することで、偶然の一致ということは無いとも思える。これもまた「双極の原理」の現れにも見える。
1. 1966 Carthay Studios, Los Angeles, CA
土曜日。03月12日かこの日か議論があり、12日というのが衆論の一致するところだそうだ。一方、こちらには手書きながらアシッド・テストのポスターが残っている。開演8時から夜明けまで。場所は 5907 West Pico Blvd, Los Angeles で、South Fairfax Avenue との交差点にあるこのスタジオ。Carthay はこの辺りの地区名。ハリウッドの真南3キロほどのところ。UCLA で行われる予定が、急遽ここに移ったともいう。
2. 1967 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
日曜日。前2日間と同じ面子でこの日だけヴェニューが異なる。どちらもビル・グレアムが主宰。共演チャック・ベリー、ジョン・タルボット&デ・サング。セット・リスト不明。
3. 1973 Nassau Veteran Memorial Coliseum, Uniondale, NY
月曜日。5.50ドル。開演7時。
4. 1977 Winterland Arena, San Francisco, CA
金曜日。このヴェニュー3日連続の中日。
5. 1986 Hampton Coliseum, Hampton, VA
水曜日。このヴェニュー3日連続の初日。13.50ドル。開演8時。〈Visions Of Johanna〉が第一部7曲目で初演された。この年もう一度演奏された後、跳んで1995年02月21日、ソルトレイク・シティで復活。07月08日まで、計8回演奏。数は少ないが、デッド最末期のガルシアの名唱が光る。8回のうち、最後を含めた3回が公式リリースされている。
6. 1990 Civic Center, Hartford, CT
月曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。20ドル。開演7時半。全体が《Spring 1990》でリリースされた。
ウィアがはちきれんばかりに歌うオープナーの〈Hell In A Bucket〉、これに対抗するガルシアの〈Bertha〉、そしてミドランドの〈We Can Run〉と畳みかける。ミドランドの曲は、曲自体はそれほど良いものとも思えないが、アレンジと、そして演奏の質の高さでもってゆく。コーダをアカペラ・コーラスにするのも当り。〈Picasso Moon〉が名曲であることも明らかになる。ここでも歌が先行し、ガルシアは第一部クローザーの〈Deal〉にいたって、ようやく本来のギターを展開する。
この日のハイライトは第二部前半で、まず〈Box of Rain〉がベスト・ヴァージョン。レシュの歌唱はかつてに比べると長足の進歩で、歌として聴かせる余裕が出てきた。そしてその後、〈Foolish Heart> Playing In The Band> Eyes Of The World〉のメドレーがこの世の則を超えてゆく。この時期の特徴の一つは、ガルシアのギターだけが核になるのではなく、ウィアとミドランドが時には対等に絡んだり引張ったりすることで、その最高の形がここで聴ける。この3曲、いずれも歌も良いが、その後のジャムが、元の曲から離れながら、その流れはしっかり保持する理想の姿で展開する。MIDI の使い方も堂に入ってきている。ガルシアはラッパや笛の音が好みのようで、〈Eyes Of The World〉ではバスーンの音をエミュレートして美味しい効果を連発する。
Drums、Space も充実していて、実に面白い。そこから移るのが〈China Doll〉というところがデッドのデッドたる所以。ガルシアのセンスの良さの現れだ。面白いことに、この曲や〈Stella Blue〉などをこういうところで演っても、センチメンタルにならない。といって、カラカラに乾ききることもない。感傷性をまったく排除しながら、しっとりと感情の襞をかきたてる演奏をする。デッドの七不思議の一つではある。
続く〈Gimme Some Lovin'〉には意表を突かれる。スティーヴィー・ウィンウッドがいたスペンサー・デイヴィス・グループによるこのヒット曲をデッドは1984年11月02日初演、1990年09月15日を最後として85回演奏。リード・ヴォーカルはミドランドではないが、どうやらミドランドがいて成り立つ曲だったようだ。なお、1994年08月04日にトラフィックが前座をした時、ガルシアが入って、この曲と〈Dear Mr. Fantasy〉を演っている。後者はミドランドの持ち歌で、〈Hey Jude〉と組合されてこの時期のステージを大いに盛りあげる。
クローザーの〈Around And Around〉は1970年代後半には、ゆっくり入って途中でどんとテンポが上がるアレンジだったが、ここでは終始ゆったりとしたまま。
アンコール〈Brokedown Palace〉もいくらでもセンチメンタルに歌うこともできそうだが、デッドではそうならない。だからこそ、心の奥に訴える。デッドの盟友でもある作家のケン・キージィは高校生の息子を属していたスポーツ・チームの乗ったバスの事故で失う。その後間もなく、デッドはキージィをショウに招待する。そして、ショウの中で、ふいにバンドはキージィのいるボックス席に向きを変え、この曲を演奏した。キージィはそれまで芸術とは握り拳だと思っていた。しかし、その瞬間、芸術とは抱擁だと覚った。
7. 1995 The Spectrum, Philadelphia, PA
日曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。開演7時半。
〈Unbroken Chain〉が第一部クローザーで初演された。ハンター&ガルシアの曲で《From Mars Hotel》が初出。デッドヘッドの非公式国歌と呼ばれながら、ショウの前のサウンド・チェックで演奏されたことはあったものの、ライヴ演奏されたことはこの時まで絶えて無かった。以後、ラスト・ショウの07月09日シカゴまで計10回演奏された。この曲以外のショウの出来が水準以下で、この曲の演奏そのものも上等とは言えなかったにもかかわらず、この初演を生涯最高のスリルの瞬間と呼ぶデッドヘッドは多い。なお、この時の演奏はレシュの息子のリクエストによる。ここでこの曲を演奏すると予定されていたようだ。
ある曲をデッドがなぜ演奏しなかったかという理由は、今となってはおそらく当人たちにもわかるまい。この曲の場合も、意図して演奏しなかった、ということではおそらくないだろう。何らかの理由、というよりは何かの拍子に演奏しそこねたものが、そのままいわば「癖」になってしまい、ずるずると演奏しないでいるうちに、本当にタブーになってしまった、という風に妄想したくなる。
それが、息子からリクエストされたことで、惰性を乗りこえて演奏する強力な理由ができた。加えて、この時期、ガルシアが衰える中で、ウィアとともにレシュがヴォーカルをとる場面も増えていた。となると、もともと多くはないレパートリィを少しでも増やそうという気にレシュがなっても不思議ではない。さらに、この曲をデッドヘッドがとりわけ好み、ライヴで実演されないことでますます曲のステイタスが上がっていることは、レシュをはじめ、バンド・メンバーは承知していたはずだ。そして、不調のガルシアを抱えてやむなくしている不様なショウに活を入れるための要素とすることを、まったく考慮しなかったこともまた無いだろうとも思う。
それにしても、この初演に対するデッドヘッドの反応は常軌を逸している。どうしてここまでの反応が起きるのか、正直、わからない。グレイトフル・デッドとデッドヘッドの関係の、最も微妙な部分がはからずも現れているようにも思える。あるいはデッドヘッドのグレイトフル・デッドに対する感情の、最も危うい部分、だろうか。まだ、はっきり把握できてはいないのだが、このデッドヘッドの反応には、どこか健全ではない、デッド世界にあっても健康なものではない感覚がまつわりついている。(ゆ)